今では日本を代表する実業家となった楽天の創業者・三木谷浩史。だが彼は会うまでに抱いていたエリート像とは大きく違っていた——。本人、両親、そして多くの関係者に取材して知られざる実像を描いた『問題児 三木谷浩史の育ち方』から、「プロローグ——太陽の子供」の一部を抜粋して公開します!

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 三木谷浩史は十分以上に悪童であった。問題児だった。中学で煙草を吸い、競馬、パチンコ、麻雀に入れ込み、父親の財布から金をくすねた。成績はふるわず、中学校の通信簿は5段階評価で2と3ばかりである。欠席日数40日以上、遅刻は30回以上。それが高校2年まで続く。

 いつ道をそれてしまってもおかしくない危うさを、この少年はずっと内側に隠し持っていたのだ。

 そうならなかったのは、少年の背中を、いつも見てくれている存在があったからだ。父親である。勉強ができないことを、そもそも勉強しないことを、父親は一度も叱らなかった。母親もそうである。

 だが息子の背中を見ていて、ちょっとまずいなという時にはトントンと肩を叩き、小声でアドバイスしてきた。道をそれる直前で、少年は太陽に照らされた明るい世界に戻ってくることができた。

 少年の両親は、日本の多くの家族がそうであったように、大きな戦争と敗戦をくぐり抜け、貧しい時代を乗り越えてきた。決して多いとはいえない給料で、3人の子供たちを大学にやった。母親も学習塾で働き、生計を支えた。

 その過程で、「本質を見る」ことの大切さを痛切に感じるようになった。だから両親は息子にもそうしてほしいと願ったのである。

 高校2年の時から息子は猛然と勉強し始め、一浪して一橋大学商学部に入学する。大学では体育会系のテニス部での活動に明け暮れ、学業のほうは50人中39番だった。

 だがゼミだけは真剣にやった。そのためだろうか、なぜか卒論を読んだ教授に大学に残らないかと誘われる。

 息子は、迷った。なぜなら、彼の父親が経済学者であったからだ。自分もまた父の歩んだ道を行ってもいいのではないか。

 相談すると、父親は苦笑しながら「それは止めたほうがええんちゃうか」とアドバイスする。息子が学者には向いていないことを看破していたのだろう。

 そして息子は興銀に就職し、同期の中で最速でハーバード大学に社費留学しMBAを取得した。だが銀行を辞めてITベンチャーを起業する。息子は自分の会社に「楽天」という名前をつけたいと思い、神戸の両親の家に帰った。

 父親が頷くのを見て、彼は会社の名前を決定したのである。

 その時もそれからも、人生のターニングポイントで、息子は父親に相談をもちかけた。

 父親は、愛する息子を、いわば背中から教育したのだった。必要な時にだけ声をかけ、太陽の方向に導いたのである。

 父は、2013年11月9日に亡くなった。

 息子は悲しみをこらえ、今でも時々考える。

 親父なら何と言っただろうか──と。

 父親の名前は三木谷良一という。著名な経済学者であった。母親は三木谷節子。自由主義的な価値観の中で、息子を見守ってきた。

 息子の三木谷浩史は楽天株式会社の創業者で、代表取締役会長兼社長として、70以上のサービスを国内外に展開する楽天グループを統括。新経済連盟代表理事、東北楽天ゴールデンイーグルス会長兼球団オーナー、Jリーグヴィッセル神戸オーナー、東京フィルハーモニー交響楽団理事長をつとめている。さらに2017年7月、楽天はサッカーの名門クラブ、FCバルセロナとパートナー契約を結んだ。

 本書は、愛情溢れた父親と母親という太陽に導かれた問題児が、どのように育ち、どのような教育を受け、そして今後どこへ向かおうとしているのかという物語である。

 それは「日本」という箱船に乗り合わせたわれわれにとっても、無関係な話ではない。

 では──始めよう。

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この続きは書籍『問題児 三木谷浩史の育ち方』でお楽しみください。

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山川健一『問題児 三木谷浩史の育ち方』

日本の未来と希望がここにある。

平均以下の成績。有名私立中学退学。熱中したのはテニスだけ。教師を悩ませ、手をわずらわせ続けた子供時代。
だがその少年は、日本を代表する実業家になった。

少年は両親からどのような教育を受けてきたのか?
前を向き続ける、くじけない心はいかに育まれたのか?
そして、いま何を考え、どのように動いているのか?

本人、両親、そして関係者への取材を経て、初めて綴られる素顔。