◎今回取り上げる本:『人工知能の見る夢は』(新井素子、宮内悠介ほか/人工知能学会)

事業のアイディアは、ちょっとした思いつきから始まる。たとえば、『思いつき!を会社にする―コースターのメモから始まる成功法則』は、著者たちが集まって飲んでいたときに思いついたアイディアをコースターに書き、それが起業へとつながっていく実話を描いている。胸が高鳴る物語だ。

もちろん、思いつきにはさまざまなレベルがあり、実現されないものや、ほんとうに大事業につながるものがある。ただ、少なくとも思いつきがなくては、そして、思いつきを記録しておかねば将来にはつながらない。

ところで、小説を買う理由は何か――と問われたらどうだろう。それは、他人の思いつきを堂々と見られる点にある、と私は答える。とくにSFは、商品やビジネスにつながる可能性がある思いつきにあふれている。米国のIT起業家は、SF小説を読んでいる、という指摘があるほどだ。

未来の可能性への思考実験を純化した作品

『人工知能の見る夢』はSF短編小説集だ。タイトル通り、人工知能の小説集となっている。しかも、人工知能学会誌「人工知能」に掲載されたものだ。人工知能は先端の領域として知られる。そこに小説家が、想像を駆使して、ありうる将来について思考実験を重ね、それを小説の形で提示している。さらにこの文庫本では、領域ごとに小説をわけ、現代の技術的問題点や、実現可能性などについて解説が付与されている。

この小説通りの未来がやってくるかはわからない。ただ、すくなくとも未来の可能性が一つきわめて純化した形で描かれており、単純に面白い。

面白い作品が、たまたま本書の前半・中盤・後半にあらわれる。

森岡浩之さん『姉さん』は、AIが実姉として機能している男性の物語だ。正確には、幼いころにプレゼントとして“姉さん”をもらい、一緒に成長し、現在では一緒に働くまでになっている。主人公は、運輸業に従業しているものの、やることいったらラストワンマイルの配送しかない。あとは、姉さんが運転から何からやってくれる。

しかし、最後のところで主人公はとある犯罪の肩代わりをする、正確には、させられることになる。自動運転の場合、実際の法令でも、運転席にいる人間が責任を取ることになるだろう。ただ、AIが人間をはめるさまが、怖さというより、むしろユーモラスに映る。
林譲治さん『投了』は、将棋のAIについて進化系が描かれる。もはや将棋を打つだけではAIとはいえない。進んだAIは、試合の前後までを考え、コンディションをつくる。たとえば、相手の棋士に話しかける。小説では、新婚の棋士・長沼八段と対局する。

<「驚きました。あんな売女が長沼八段のような社会的地位のある方と、結婚できるとは」
「君には関係あるまい」
私は何とか、その程度に自分を抑える事ができた。しかし、内心は決して穏やかではなかった。>

この売女、といわれる長沼八段の妻は、いわゆる売春婦ではない。AIは有名なAV女優に長沼八段の妻が似ているという冗談をいっている。このように心理戦もしかけてくるAIへと昇華している。最後には、その心理戦がゆえに、長沼八段が勝つことになるのだが、それがきわめて面白い。

機械はしだいに過剰な人間となる

この前半・中盤の物語では、AIの高度に進化した姿が人間臭くなっている。たとえば、『姉さん』において、人間を“身代わりに差し出す”といった行為。あるいは、『投了』での心理戦や、あるいは皮肉を人間にふっかける場面などだ。

以前、通常の組織では業務システムを導入しても、もともとの仕組みがバカなものだから、システムを入れるとバカが加速する、と指摘したコンサルタントがいた。AIはもともとデータを学習し、そして反応する。AIが、あらゆる場面で人間がどのように反応するか、あるいはどのように志向するか、思考するか……と学び続けていった結果、もとの人間よりも人間臭くなるわけだ。

ということは、人間vs機械ではなく、行き過ぎた人間という意味で、人間vs過人間の構図がありうるだろう。そこでは、生存本能や安全欲求をAIたちがもちはじめる。今回の書評では紹介しないものの、本書『人工知能の見る夢は』には、中二病に罹患したAIなども出てくる。しかし、人間を過学習した過人間であるとすれば、それは当然の帰結なのかもしれない。

しかし、これよりも私がそのアイディアに胸を衝かれたのは、高野史緒さんの『舟歌』だ。これに関しては設定紹介自体がネタバレになるのをご容赦いただきたい。本作品では、気鋭のピアニスト・ヴィ君が登場する。ヴィ君は国際コンクールでデビューしている。

そこで、ヴィ君は、音楽AIのピィ君と出会う。そのピィ君は、なんと音楽を聴くだけのAIなのだ。ピアニストの演奏を分析して、再現するAIではない。かといって演奏を聴いて、新たに作曲するAIでもない。ピアニストの演奏を過去のそれとくらべて採点するAIでもない。

かといって、これが重要だと思うのだが、奏者の頭脳にアクセスして気分をよくするものでも――ない点だ。ただただ聴くAI。なんというアイディアだろう。主人公のピィ君は、AIを前に熱演し、自らの演奏に感動してしまう。

小説を読むAIが今必要だ

ここまで書いて説明するのは野暮かもしれない。ただ、先にあげた小説の面白さは、『姉さん』と『投了』が、いわゆるいまの感覚で理解できる面白さであるいっぽうで、『舟歌』はいまの感覚で理解できない面白さとなっている。

本書では、そのほとんどのAIが、なんらかの人間の形をとったり生物の形をとったりしている。これは小説で感情移入させるためでもあるだろう。しかし、AIという機械に感情を移入するという倒錯。いまだに私たちはAIを人間(過人間)といった形でしか理解できずにいる。

対比すると『舟歌』は、これまでの人間の延長ではない、まったくあらたな鑑賞のあり方を提起する。作品では、どのような鑑賞が演者の心を奮わせ、そして奇跡のような演奏に導いたのかは書かれていない。しかし、もし現時点での人間理解を超えるものだとしたら、書かない選択肢をとった著者は正しいことになる。

この短編集で描かれたおのおのの、人間の主人公は、ポストモダンの象徴となっている。マルクス主義は社会全体の進化を目指し大きな物語を志向した。そしてポストモダンでは、個々の物語に分断され、価値観は多様化し、個人や小集団がバラバラに生きるようになった。バラバラに生きる私たちは、社会全体の共有認識や教養を持たずに、それぞれのオタク的な知識を有して生き延びてきた。しかし、AIこそが、特定ジャンルのデータ分析が得意で、はるかに人間のオタク的知識を超越していく。機械に労働を奪われる人間――これをマルクス主義では疎外といったが――の姿は逆説的ですらある。

主人公の比喩がポストモダンではなく、高度資本主義だったとしよう。そうすれば、人間の幸福追求と技術発展のために試行錯誤した結果、その主体であった人間を多くの領域で凌駕する新たな主体を作り上げた、ともいえる。

仕事をする、とは、ある種の未来への楽観がなければならない。誰も、自分がやることが簡単に機械に代替されて、自分が不要になる、という未来を確信したまま仕事には従業できないだろう。このような短編集が発売されること自体、ある種の、社会の不安が無意識に注入されているといえる。

ここで発想を変え、自分の仕事にAIを使う、あるいは自分の幸福追求にAIを活用していく可能性を模索するべきだろう。AIは、SFの世界だけではなく、実務の世界で特定領域のデータ分析ツールとして当然のように使われるようになる。

同時に、『舟歌』にあったように、想像もできなかった発展も起きるに違いない。やや抽象的だが、AIを活用したビジネスも、そういった過人間ゆえに、人間の感情を揺さぶる方向で提供できるだろう。

ところで、『舟歌』ではラストシーンで、次に開発中のAIについて触れられる。その最後のフレーズがいい。

<小説を読むAIだ。なるほど、確かにそれは、今最も必要とされる存在に違いない>

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