新年のよく晴れた日曜日、野宮真貴さんご夫妻が遊びにいらして、拙宅で小さな新年会を催しました。

 野宮さんは、チューリップの花束をお持ちくださり、それは我が家のエントランスに飾られたホックニーの絵に合わせた素敵なチョイスで、その洒落っ気に感銘を受けました。


 ご夫妻とのおつき合いは、かれこれ四半世紀に及びます。
 ちょうど、25年ほど前、私と野宮さんのご夫君は、同じテレビ局に勤務し、同じチームで働いておりました。そして、その頃、私たちが携わっていた子供番組のテーマ曲を歌っていたのが、野宮さんでした。
 その番組が機縁となり、お二人は、おつき合いを始めたのだそうです。

 当時20代の後半だった、ご夫君には夢があり、私と共に携わった番組が終了した後、惜しまれながら、テレビ局を退社いたしました。
 新たな世界へと旅立つ彼を、毎日に忙殺され、これといった夢を持たなかった私は、眩しく羨ましく、見送ったことを覚えております。

 有能だった彼が抜け、その分、少し慌ただしくなった職場で、夜も昼もなく働いていたある日のことです。
 疲れ切って、独り暮らしの部屋に帰り、昂ぶった神経を抑え、眠りに就くために、熱いシャワーを浴び、冷たい缶ビールを飲んでいると、電話が鳴りました。
 深夜2時頃だったと思います。

 受話器を取ると、彼の声が聞こえました。
 シシリーのタオルミナだったか、マルタ島だったか、地中海に面したどこかの国からの国際電話でした。

 今、海辺のカフェで、日没を見ています、と、懐かしい彼の声が受話器を通して、伝わって来ました。
 素晴らしい夕焼けを見ていたら、矢吹さんのことを思い出し、声が聞きたくなりました。この夕焼けを分かち合いたくて、電話をしました。

 今でもなぜかは、判然としないのですが、その声を聞きながら、私は涙が溢れて来るのを止めることができませんでした。

 東京の狭いアパートで、美しく雄大な地中海の日没を思いました。
 そして、その日没の前に佇む、彼の孤高な後ろ姿が、思い浮かびました。
 
 それから彼は、今、自分を探すため、世界を旅しているところなのだ、と話してくれました。

 どれくらいの時間、話していたでしょうか。
 ではね、チャオ、と言って、彼は電話を切りました。

 しんとした部屋の中で、私は、このままではいけない、と思いました。
 どんな状況の中にあっても、自由な存在であろう、自由に生きなければならない、と思いました。

 その世界旅行のさなか、彼はパリで、ツアー中の野宮さんと落ち合い、プロポーズをしたのだそうです。

 1年ほどの放浪の旅を終え、東京に落ち着いた彼から、やがて、子供が生まれた、という報せが届き、結婚のお披露目にも招んで頂きました。

 私が、野宮さんにきちんとご挨拶をしたのは、そのパーティの席だった、と記憶しております。

 
 私は結局、その後、20年以上の間、いろいろなものから自由になれないまま、過ごしました。

 野宮さんご夫妻とのおつき合いが再び、活性化したのは、野宮さんがビルボード・ライブでの初冬の定例コンサートをスタートされた頃だったと思います。
 
 野宮家では、息子さんが成人され、私が勤務先の早期退職を決めたのが、その頃です。

 私たちが皆、ちょうど、人生の新しいステップに踏み出そうとしていたタイミングでした。

 ライブに招んで頂いたり、一緒に食事をしたり、家族ぐるみのおつき合いをさせて頂くようになりました。

 同じ時代と同じ空気の中を生き抜いてきた私たちの中には、今、あまり多くの言葉は要らない、というところがございます。

 美味しいものを美味しい、と分かち合い、美しいものを美しい、と愛でて、共に穏やかで静かな時間を共有できる喜びがそこにはございます。

 私たちの人生には、それぞれにいろいろなことがありましたが、今、こうして、同志か戦友のようなお互いの存在を得て、共に笑い、話せることを幸せに思います。

 近年の野宮さんの精力的な活動とその益々の輝きに触れるたび、私ももう少し頑張らなければ、という思いを新たにするのです。

この記事をシェア
この連載のすべての記事を見る

★がついた記事は無料会員限定

矢吹透『美しい暮らし』

味覚の記憶は、いつも大切な人たちと結びつく――。
冬の午後に訪ねてきた後輩のために作る冬のほうれんそうの一品。
苦味に春を感じる、ふきのとうのピッツア。
少年の心細い気持ちを救った香港のキュウリのサンドイッチ。
海の家のようなレストランで出会った白いサングリア。
仕事と恋の思い出が詰まったベーカリーの閉店……。
人生の喜びも哀しみもたっぷり味わわせてくれる、繊細で胸にしみいる文章とレシピ。