◎今回取り上げる本:『通りすがりのあなた』『「自分」を仕事にする生き方』(はあちゅう)
 

「ここでキスしていたんですよね」

すこし前のことだ。私は、ある企業の研究所で深刻な話をしていた。それは今後の仕事の進め方に関する内容で、費用をどうするといった内容だ。私たちは、コンサルティング会社で、企業から仕事を請け負う。コンサルティング、というと、なんだか虚業のようだけれど、実際にやるのは地道な分析や、エクセルとにらめっこするシミュレーションだ。

1円でも多く予算を確保しておかなければならない。予算がなく、この予算の範囲で、といわれても、けっきょく要望は肥大化していく。あれもこれも、と工数が膨らみ、最終的には赤字の仕事になってしまう。とはいえ相手も、ない袖は振れない。予算決定がもっとも重要な仕事になっている。

会話のブレイクではなかったけれど――。そのとき、他の研究者やコンサルタントの話になった。

「そういえば、この前、うちの職員と外部のコンサルタントが結婚したんです」
「しかも、二人で、よくこの部屋で打ち合わせをしていました」
「たぶん、ここでキスしていたようです」

担当者はなぜか逢瀬の状況まで教えてくれた。担当者は、ああ、それはどうでもいいんですけれどね、といって、また本題に戻っていった。

この会話が、本題の予算確定にどういった影響を与えたか。考えてみるに、それはまったく影響を与えていない。そして、なぜ会議室でのキス話が出てきたか。それも、論理的な整合性をもっていない。突発的に、そして無意味にやってきたにすぎない。

しかし――、この打ち合わせを記述する際に、この会話は欠かしてはいけないように、私は感じる。この話のあと、なぜだか、打ち合わせが両社の意向どおりまとまったのだが、それをこのキス話のおかげだと論じるのは難しい。それは、けっきょく、条件のすりあわせがうまくいっただけだ。それでもなお、私は、たとえば社内でこの打ち合わせについて伝えるときに、このキス話を語りたい衝動に駆られる。

私は書籍や連載などで、他者に事実を伝えるときが多いけれど、そのときにも、こういった本題とは無関係な、それでいて印象的な出来事について語りたい衝動に駆られる。理由はわからない、でも、そういうことが起きたのは事実で、私はなぜか書きたいと感じている――。

ものを書く人は、つねに事実の記述について悩む。とくに論理的整合性のない事実について。この悩みと無縁なほど脳天気なひとはいないだろう。

もちろん、前述のキス話も、たいしたエピソードではない。

ただそれでもなお、その、なぜだか印象に残る、非論理的なエピソードを欠かす文章は、どこか死文のように感じられるのだ。

◆私たちの出会いは意味のないものばかりだ

はあちゅうさんの『通りすがりのあなた』は、女子の<半径5メートル>をあざやかに切り取った一人称小説だ。短編集だから、さまざまな物語がある。留学先で出会った男性との邂逅の話、奇妙な人材派遣サービスでの出会いの話、イギリス育ちの女性とのギャップを感じる話、外資系金融マンとの合コンとその後を描いた話、外国での不遇な生活の話。

どれもが、「私」の目線から出来事を記述しており、優しい空気にあふれている。対象は異性としての男性が登場し、恋愛をしたり、あるいは自分の人生を考えさせられたりする題材として書かれたりする。

おそらく、女性主人公たちにとっては、その男性だれもが重要な意味をもつわけではない。意味はもたないけれど、ただし、なぜか人生のなかで欠かしてはいけない気がする――といった存在だ。『通りすがり』ではあるけれど、『あなた』といったていどの認識はある異性。

私が本書のなかで好きな物語は「六本木のネバーランド」だ。この話は、外資系のトップエリート社員の森さんと合コンで出会う場面から書かれる。

<「ちゃんと寝れていますか」
「今は落ち着いているけど、忙しい時期は、睡眠二時間とか。四時間寝られれば御の字かな」
「よくそれで生きてられますね」
「それでも、金融の仕事は好きだし、まあ、他のやつらも同じ条件で働いているから弱音ははけないって感じかな」

(中略)

いつもは、忙しくて恋なんてしないという人はうさん臭く感じるのだけれど、森さんの顔は本当にくたびれていて、真に迫るものがあった。仕事以外、本当に何もない人生だとしたら、可哀想だ>

そして主人公は、なぜかこの金融マンの部屋を無償で貸してもらう。金融マンが外国に研修に旅立つため、空いた部屋を自由に使っていいという。主人公はしばし、その自由を謳歌するが、あるとき、主人公が部屋にいくと、その金融マンがなぜか帰宅していた。というのも、心がすっかり疲れ果て、もう仕事を辞めようとしていたからだ。

<正直、森さんが望むなら、森さんと寝てもいいと思ったのだけれど、やっぱりそんなことを欲している気配は全くなかった。欲しがってくれたら私も気が楽なのに。でも、森さんはそんなものを全然欲しくなさそうだった>

この、寝る理由はなんだろうか。おそらく、意味を追求してはいけない。そして、主人公にとって、この森さんの存在意味はなんだろうか。読んでもらうとわかるが、ほぼ意味をなしていない。主人公にとって、恋人は別にいるし、都内に部屋を貸してくれただけだ。しかし、私たちには、意味はないがなぜか記述せねばならない出会いにあふれている。その無意味さを集めたのが、『通りすがりのあなた』だ。

はあちゅうのまっとうすぎるまっとうさ

はあちゅうさんの『「自分」を仕事にする生き方』は、きっと、多くのひとを怒らせる内容だと思う。すくなくとも、多くのひとが――、読んでいないにもかかわらず――批判したい内容になっている。それはタイトルを選んだ瞬間に自明だったかもしれない。

それは、自分が好きなことをして、そして注目を浴びて儲けるといった皮相への反感だ。この『「自分」を仕事にする生き方』を読むと、そんな単純な内容は書かれていないけれど、多数のひとにとっては、叩きやすい題材には違いない。

本書で著者が述べている内容は、あまりにまっとうすぎることで、むしろ批判者はその「まっとうさ」性を批判してもいいのではないかと思うくらいだ。

<何も変えないで、人生が変わるわけがないんです。なのに、世の中には自分は何も変えないで、人生を変えようとしている人が多いと思います。(中略)お金を払ってでもしたいことを少しでもお金を受け取って出来るようになることが、自分を仕事にするということです>

このまっとうな発言が重なる。しかし、なぜ批判者は、こういった内容を罵倒せざるをえないのだろう。そこにおそらく、ある種の対立がある。

批判者は、「賛同できない」として、細やかな点を罵倒する。しかし、はあちゅうさんを批判するひとたちは、すでに、他の信じるものをもっているひとたちで、それがゆえに正しさや誤りが問題となる。他の正しさを知っているために、誤りが気になる。

批判者がわかっていないのは、正しさや誤りは、もはや、読者を動かす原動力にはならない。いま優先されるのは、「なぜだかわからないけれど、このひとを信じてみたい」という心の揺れであり、昂ぶりであり、直感にも似た情感だ。それが論理的に正しかろうが、誤っていようが、それは関係がない。はあちゅうさんを、なぜか「信じられない」と思った瞬間に、文章はあとづけになる。逆に、はあちゅうさんを「信じてみたい」と思うひとにとっては、その預言が輝き出すだろう。

なぜ、その心の揺れを感じたか。昂ぶりを感じたか。そして直感的に信じてみたいと思ったか――、それは偶然にすぎない。前述のとおり、それは、ささいな一言があったかもしれない。著者がさり気なく書いたネットの文章に心惹かれたかもしれない。あるいは、メディアでの発言かもしれない。そこに、もはや論理的整合性はない。すくなくともいえるのは、その露出機会が多いほど、批判者も増えるいっぽうで、偶然の邂逅を果たす賛同者も増えることだ。

あなたを信じることに意味はない

はあちゅうさんの一連の作品は、こういったら失礼だが、無意味さの意味を語ったものだと私は思う。自分に何もなかったとしても、とにかく頑張って努力して行動し続けたら、「何か」は達成できるぜ、という主張。いや、それは、無意味さこそが意味であるという倒錯したメッセージなのかもしれない。

きっと、はあちゅうさんが、恋愛エッセイや恋愛小説から離れられない理由がここにあると、私は思う。なぜならば、恋愛こそが、もっとも非論理的な、意味と無意味がすぐさま逆転する世界だからだ。

まっとうに考えると論理的ではない、そして、理屈のない恋愛という事象。ときに「好きだ」といった数日後には「あなたなんて嫌いよ」と憎悪に変化している、この無意味さと非論理性から離れられずにいるのだ。料理教室に通って、ある料理ができるのは当たり前かもしれない、しかし、恋愛は、壮大な時間の浪費をしたあとに、それが無意味であったと知るかもしれないのだ。

現在、大きな物語が人気だ。国家であれ、会社であれ。どんな組織でも、その存在意義を示す、大きな物語が欲されている。

しかし、私は、『通りすがりのあなた』のような、ささやかな、無意味で、それでいてたしかに人生に欠かしてはならない物語がそこらじゅうにあふれていることのほうに、むしろなぜか奇跡を感じる。それはたしかに、半径数メートルのことで、通常では語られないことかもしれない。しかし、その出来事が、たしかに誰かに影響を与えている。そして、その無数の『通りすがりのあなた』たちによって私たちが存在している。

無意味さの意味。

おそらく、文章そのものではなく、これから「あなただからお金を払いたい」と思わせるかどうかが重要になってくる。企業のマーケティングにおいても、商品そのものを喧伝する効果は薄くなっている。その企業にお金を払いたいかが重要で、それ以外ではない。そこに論理性はない。ただ、信じてみたいと思わせたかどうかが大切だ。

『「自分」を仕事にする生き方』は、表紙が手抜きなくらい、真っ赤になっているけれど、おそらくあれは炎の赤にちがいない。ただ、炎上ではなく、なぜか心昂ぶり、信じてみたい心の燃え、という意味において。
 

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