クラシック音楽において「第九」といえば、ブルックナーでもなくマーラーでもなく“ベートーヴェンの”交響曲第九番のこと。欧米では神聖視され、ヒトラーの誕生祝賀、ベルリンの壁崩壊記念など、歴史的意義の深い日に演奏されてきた。演奏時間は70分と長く、混声合唱付きで、初演当時は人気のなかったこの作品が「人類の遺産」となった謎を追う。
二〇一一年四月十日 日曜日の午後、上野の東京文化会館で「第九」が演奏された。指揮はズービン・メータ、オーケストラはNHK交響楽団だった。
この国では年末に演奏されることになっている「第九」が、なぜ季節外れの桜の時期に演奏されたのか。このコンサートは、「東京・春・音楽祭――東京のオペラの森2011」のプログラムのひとつで、「東北関東大震災 被災者支援チャリティー・コンサート」だったのだ。本来ならばこの日はワーグナーの《ローエングリン》が演奏会形式で上演されるはずだったが、放射能を恐れた外国人演奏家たちが来日を拒み、中止となっていた。そこで、メータが単身で来日し、「第九」を演奏することになったのだ。
被災者に気を遣っての自粛ムードが高まり、三月十一日以降、コンサートの中止が多くなっていたところに追い打ちをかけたのが、東京電力の原子力発電所事故による放射能汚染の拡大だった。秋になっても演奏家の来日キャンセルは続いているのだから、三月や四月の段階で、来たがらない音楽家がいるのは当然だった。それなのに、メータは来た。
実はメータは、三月十一日の大地震当日、日本にいた。フィレンツェの歌劇場とともに来日公演のツアー中だったのだ。しかし放射能被害を危惧(きぐ)したフィレンツェ市当局は、歌劇場に対し日本公演を中止してすぐに帰国するよう命令し、以後の公演は中止となった。メータは、自分は残って日本人を励ますためにコンサートをしたいと、日本のオーケストラに呼びかけたが、どこも応じなかった。彼は無念の思いで、いったん、帰った。その後、NHK交響楽団との話がまとまり、日本へ再びやって来たのだ。
私はメータの侠気(おとこぎ)に感銘を受けて、チケットを買い、桜が満開の上野へ向かった。
オーケストラと合唱団が揃い、チューニングが終わると、メータがゆっくりと、沈痛な面持ちで登場した。それだけで拍手とブラボーの声が出た。演奏への賛辞ではない。来てくれたことへの感謝の意味の喝采(かっさい)だった。しかし、メータはにこりともせず、沈痛な表情を崩さなかった。
メータはステージ中央までくると、客席へ向かい、スピーチを始めた。「桜が満開となる今日、避難所で苦労している被災者の方々が、来年以降は桜を楽しめるように願っています」というようなことを言った。そして、メータは黙祷(もくとう)を呼びかけた。聴衆全員が起立し、一緒に黙祷した。その後、「バッハの管弦楽組曲のアリア(通称「G線上のアリア」)を先に演奏するが、それが終わっても拍手をしないでくれ」と言った。通訳は「拍手をしてください」と誤訳したが、オーケストラの楽団員がその誤りを訂正した。笑い声が出たのはこの時だけだった。
こうして、バッハが始まった。追悼(ついとう)ムードが広がっていく。終わっても、当然、誰も拍手はしない。数十秒の静寂のなかから、「第九」が静かに、悠々と始まった。
「被災者支援チャリティー」と銘打ってはいたが、この日の「第九」は、メータのスピーチが犠牲者への追悼の念に満ち、聴衆とともに黙祷をしたことが示すように、追悼演奏会の性格も持っていた。しかし「追悼」なのに、最後は「歓喜の歌」となる「第九」でいいのだろうかと、聴きながら考えていた。
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第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話
ヒトラーの誕生祝賀、ベルリンの壁崩壊記念など、欧米では歴史的意義の深い日に演奏されてきた「第九」。祝祭の意も、鎮魂の意も持つこの異質で巨大な作品が「人類の遺産」となった謎を追う。