小谷野敦著『文豪の女遍歴』(幻冬舎新書)――夏目漱石、森鷗外、谷崎潤一郎ほか、スター作家62名のさまよえる下半身の記録。姦通罪や世間の猛バッシングに煩悶しつつ、痴愚や欲望丸出しで恋愛し、それを作品にまで昇華させた日本文学の真髄がここに。

 

 

里見弴 (一八八八 〜 一九八三) Ton Satomi

 里見は、本名・山内英夫、有島家の四男だが祖母の山内家を継いだ。身長一五三センチの小柄だが顔はハンサムで、武郎は十歳上、志賀直哉が五歳上で、学習院から東大英文科へ進んだが中退した。志賀とは親友だったが、いわば志賀のお稚児さんだったともいえ、二人で吉原で遊び、一緒に松江へ旅した。だが、里見が私小説に描いた志賀の姿に志賀が怒り、そのうち絶縁、むしろ里見は、志賀の圧迫を逃れるため大阪に行く。南地つまり難波の藝者宅の二階に下宿しており、そこの藝者・十八歳の山中まさと恋愛し、結婚する。両親は反対したが押し切った。大正四年(一九一五)のことである。

 まさは里見の子を産むが、里見が両親説得のため上京している間に子供が病気になり、里見が下阪する途中に死んでしまう。

 かつて里見の代表作として読まれた『多情仏心(たじょうぶっしん)』は、色男の弁護士が主人公で、妻があっても他に女を作り、それぞれの相手に本気ならいい、という一夫多妻主義のもので、のち新潮文庫の解説で、里見が存命中なのに本多秋五(しゅうご)が批判したが、里見もこの批判は受け入れた。

 まさとの間には、松竹のプロデューサーで小津安二郎と里見の共作を実現した山内静夫のほか三男一女が生まれたが、大正十二年、里見は赤坂の藝者・菊龍と熱愛におちいる。菊龍は三井財閥の中上川(なかみがわ)次郎吉が旦那で、その当時は二代目市川猿之助(のち初代猿翁)の愛人だったが、里見は猿之助から奪った。遠藤喜久、通称お良で、里見はお良が戦後死ぬまで、ほぼお良と生活を共にした。

 関東大震災の時、里見は鎌倉から上京して妻と子供らを鎌倉へ移すが、その際、家に出入りしていた市川という男と妻まさが密通していることを知り、二人を問い詰める。これは『安城家の兄弟』に詳しく書いてあるのだが、ペッサリーを見つけて密通を知ったり、妻に「腐った魚の腸(はらわた)臭いがするぞ」と言ったり、凄絶である。駆け落ちしても二人で添い遂げたいのかという里見の問いに、市川がよう答えなかったので、そのまま里見は二人を別れさせる。

 お良との生活の間にも、女書生を家に置いて関係していたらしいし、中戸川吉二が弟子入りした時は、中戸川の妻になる吉田富枝から里見宛に手紙が来て、この少女とも危ういことがあった。また昭和初年には、まだ正体不明だが、良家の出戻り娘らしいモダンな女と恋愛をして、「無法者」という小説を書いている。

 戦争が激化すると、里見はお良を長野県上田へ疎開させる。その時の往復書簡が『月明の径(こみち) 弴・良 こころの雁書』として刊行されている。

 昭和二十七年(一九五二)、最愛の愛人お良が、五十七歳で子宮がんのため死ぬ。それより前にお手伝いとして来ていた外山伊都子(とやまいつこ)が、そのまま里見の面倒を見るようになり、「市兵衛」などと呼ばれていた。里見の正妻まさは、一九七三年二月、里見に呼ばれて息子の家へ行った帰り、里見と別れたあと、交通事故で死んだ。里見が死ぬのはその十年後、八三年で、九十五歳になっていた。

 伊都子は、那須の里見の別荘を貰い、以後関わりないこととして放逐された。のち『新潮45』一九八五年八月号に「『多情仏心』に捧げたわが半生」を寄稿した。

 

*参考文献
・小谷野敦『里見弴伝 「馬鹿正直」の人生』中央公論新社、二〇〇八

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小谷野敦『文豪の女遍歴』

下司だ、覗き見趣味だと言われようと、文学者の異性関係を知るのは楽しい。彼らが当時の姦通罪に怯え、世間の猛バッシングに耐えながらも不義を重ねたり、人間の痴愚や欲望丸出しで恋愛し、破滅と蘇生を繰り返し、それを作品にまで昇華させるタフさに畏怖すら覚える。小説はモデルなど詮索せず、文章だけを虚心坦懐に読めと言う人もいるけれど、そんなつまらない味わい方はしたくない――。森鷗外から太宰治、芥川龍之介、谷崎潤一郎ほかスター作家62名の赤裸々な性愛の記録。日本文学の真髄と、生の根源がここに。