小谷野敦著『文豪の女遍歴』(幻冬舎新書)――夏目漱石、森鷗外、谷崎潤一郎ほか、スター作家62名のさまよえる下半身の記録。姦通罪や世間の猛バッシングに煩悶しつつ、痴愚や欲望丸出しで恋愛し、それを作品にまで昇華させた日本文学の真髄がここに。

宇野千代 (一八九七 〜 一九九六) Chiyo Uno

 宇野千代の男遍歴は『生きて行く私』(一九八三)がベストセラーになり、テレビでも当人がよく話していたから知られている。「徹子の部屋」に出た時は、黒柳徹子が「尾崎士郎さん……」と言うとすかさず「寝たッ!」と言うので、あとで黒柳が、あんなお昼寝でもするように寝た寝た言う方は初めてだと笑っていたという。ところが小林秀雄だけは、寝たでも寝ないでもなく口を濁したので、あとで訊いたら、雑魚寝(ざこね)をした、という。

 宇野は山口県の裕福な家に生まれたが、岩国高等女学校在学中、従兄の藤村亮一と結婚させられたが、弟の忠のほうが好きだったので、すぐ離婚し、小学校の代用教員をしたあと朝鮮へ渡り、舞い戻って忠と京都、東京へ移り結婚、燕楽軒(えんらくけん)という文士の集まる料理店で十日ほど働くうちに、久米正雄や今東光と知り合うが、夫の仕事で北海道へ渡る。

 大正十年(一九二一)、「時事新報」の懸賞小説に藤村千代の名で一位当選、『中央公論』に小説第二作を送るが返事がないので上京。この時二位当選だった尾崎士郎とねんごろになり、二人で東京の馬込に住む。ここは当時文士村と言われ、川端康成も一時住んでいた。尾崎とは正式に結婚して藤村とは別れるが、昭和五年(一九三〇)に尾崎とも別れる。梶井基次郎と関係があったと言われたからだというが、梶井はぶ男だから、関係はなく、梶井のほうで一方的に千代を思っていたらしい。

 同年、三十三歳で画家の東郷青児(一八九七-一九七八)と知り合い同棲する。『色ざんげ』は、東郷の女遍歴を聞いて書いたものである。九年には青児とも別れ、ファッション雑誌『スタイル』を創刊する。昭和十四年(一九三九)に、作家の北原武夫(一九〇七-七三)と結婚した時は、四十二歳になっていた。北原と離婚したのは昭和三十九年(一九六四)で、六十七歳になっていた。

 宇野の男遍歴がさほど抵抗なく受け入れられたのは、子供を産まなかったからだろう。宇野の著作権は、秘書だった藤江淳子(あつこ)が引き継いでいる。

「時事新報」で一等になった時の審査員の一人が里見弴だったが、里見は宇野の九つ上で、のち一九七〇年、ともに那須に別荘があるので宇野が里見を訪ねた時、「そういう縁があるのにあまり仲良くしてこなかったね。これからは仲良くしよう」と里見に言われたという。『生きて行く私』は、それより前に純文学自伝小説として書いた『或る一人の女の話』を大衆向けに書き直したものとも言える。

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小谷野敦『文豪の女遍歴』

下司だ、覗き見趣味だと言われようと、文学者の異性関係を知るのは楽しい。彼らが当時の姦通罪に怯え、世間の猛バッシングに耐えながらも不義を重ねたり、人間の痴愚や欲望丸出しで恋愛し、破滅と蘇生を繰り返し、それを作品にまで昇華させるタフさに畏怖すら覚える。小説はモデルなど詮索せず、文章だけを虚心坦懐に読めと言う人もいるけれど、そんなつまらない味わい方はしたくない――。森鷗外から太宰治、芥川龍之介、谷崎潤一郎ほかスター作家62名の赤裸々な性愛の記録。日本文学の真髄と、生の根源がここに。