◎今回取り上げる本:『なんとなく、クリスタル』『33年後のなんとなく、クリスタル』(田中康夫)

テレビなどで流行を解説するとき、つねに私は悩んでいる。たとえば、新たなテクノロジーによって生まれた商品を説明するならいい。また、市場規模などの定量的なデータ解説であれば、まだいい。

しかし、消費者心理なる、たまゆらなものを解説するとき。「最近の若者は」とか「消費者の変化が」とかいう際に、潮流をあまりに恥ずかしげなく語る論者は疑ったほうがいいと私は思う。

なぜなら、2500年前の古典をいまだに読んで感心できるということは、人間の根源はさほど変化していないと思えるからだ。たとえば、高度成長期が終わり停滞の時期から、「私は何をやりたいのか」と内側を見つめる傾向が出てきた、とよく説明される。ただし、「君たちはどう生きるか」といったテーマははるか昔から書き続けられているではないか。

また、そのほか、自分のお金儲けだけではなく社会全体の利益を考える傾向が高まった、というが、それは100年前に渋沢栄一が述べたこととどう違うのだろうか。信頼をまず得ることが大切だ、とこのところ叫ばれる言説は、松下幸之助が語った人生訓と、どれほど違うのだろう。

人間はさほど変わらない。流行ではない、不易なのだ。どんな時代にも、人生について悩み、他人の承認を必要とし、自慢したがり、性欲・食欲にしたがい行動する--。それらの原始欲求にしたがって、その時代に登場する商品を消費するだけだ。そう考えるのは醒めすぎた見方だろうか。

たぶん、こういう態度は、時代の微差を見つけて大げさに喧伝するマーケッターからはそれこそバカにされると私は思う。それでも、人間はさほど変わらないのではないか、と考えておく態度は重要ではないだろうか。

カタカナの固有名詞の羅列と註釈が意味するもの

流行と不易。商品の開発やマーケティング、そして消費論を考えるとき、一読しておきたいのが、田中康夫さんの『なんとなく、クリスタル』と『33年後のなんとなく、クリスタル』の二冊だ。

私は、仕事柄、よく消費論を読む。そうすると、いつでも田中康夫さんの『なんとなく、クリスタル』が引用される。これは1980年代の東京で生きる若い女性を描いた傑作の小説だ。

ひたすらカタカナの固有名詞があげられ、そして、注釈がつけられる。見開きの右ページが小説本文で、そして左側が単語の説明ページとなっている。たとえば、小説の全体がこんな感じだ。

<六本木へ遊びに行く時には、クレージュのスカートかパンタロンに、ラネロッシのスポーツ・シャツといった組み合わせ。ディスコ・パーティーがあるのなら、やはりサン・ローランかディオールのワンピース。

輸入レコードを買うのなら、青山のパイド・パイパー・ハウスがいい。ハメルンの笛吹き男にちなんで店名が付けられたこのレコード店は、輸入盤の入荷が早い。それに、ニューヨーク、西海岸のシンガー=ソング・ライターものが、有名無名を問わず入ってくるのも大きな魅力となっている。学校帰りに寄っているうちに店の人とも親しくなった今では、三日に一偏は顔を出してみることにしている。

といって、ここだけでは見落とすレコードも出てきてしまう。たまには、フュージョンに強い原宿のメロディ・ハウスや、渋谷のシスコでロックものをのぞいてみる。>

おそらく、当時の読者のほぼすべてが、この固有名詞を理解できなかっただろうし、文芸評論家もそうだと思う。しかも、この固有名詞の選択は、フュージョンがふさわしいのであって、ヘビーメタルやハードロックではいけないのは明らかだ。単語の校正はもちろんやっただろうが、その選択センスまでは問われなかったはずで、多くの批評家が指摘したとおり、固有名詞は記号として使われている。

釣りにスーツで現れた田中康夫氏

私がこの小説を読んだのは田舎で高校生をやっていたときだ。まったく理解できなかった。文字通り、意味がわからなかった。あまりにも不安になって、この小説を読んだ識者たちの感想を調べてみたほどだ。

そしてわかったのは、すごくややこしい構造があることだ。

この『なんとなく、クリスタル』を批判するひとたちは、脳天気に動物的に消費活動を続ける若者の空っぽさをバカにしていた。しかし、そもそも、その空疎さをあらかじめ想定しているから、それはそもそも批判としての効力がない。

また『なんとなく、クリスタル』で描かれたのは、あくまで一部の事象であって、それが若者消費すべてを表現しているわけではない、といった批判も同様かもしれない。なぜなら、若者の紋切り型な青春を描く他作品のカウンターだったわけで、極端な若者像を提示したゆえにセンセーショナルだったはずだ。

そして逆も然りだった。文芸評論家がこの作品を手放しで褒めてみても、なんらかの定番とみなされることが、もっとも主人公たちが忌み嫌うはずだった。すでにそこで描かれたの時点で、すでに陳腐化ははじまっており、もはや新しいモードに入っている。偉大なヒヒョーカ先生が褒めた瞬間に、それはダサいものでしかなかったはずだ。

私は、田中康夫さんが学生時代に、男性の知人から釣りに誘われて、集合場所にスーツで来たというエピソードが好きだ。田中さんは、釣りって、女を釣るんだろ、と答えたそうだ。このエピソードがほんとうかどうか、私は興味がない。それよりも、田中さんが、一橋大学生というパブリックイメージをゆうゆうと超えて、快楽に生きているさまに面白さを感じるためだ。

わかりやすくなった50代

ところで、その著者が『33年後のなんとなく、クリスタル』を上梓している。主人公は、ヤスオで、政治家をやめ文筆業とタレントになった主人公と、かつての交際女性らの邂逅を記したものだ。

オビに「1980年代に大学生だった彼女たちは、いま50代になった。」と書かれている。私はたいへんに失礼ながら、本書を年配層マーケティングのヒントになるのではないかと思い読んだ。皮肉なことに、高校生時代にわからなかった著者の層は、さらに星霜を経たあとに、私の研究対象となったのだ。

すると驚くことに、前作よりずっとわかりやすい。いや、固有名詞がわかりすぎて、逆にトリックがあるのではないかと思うほどだ。<六本木交差点から東京タワー方向へ向かい、二つ目の信号を右手に折れると、佇まいは繁華街から一転する。いずれも明治初期に創立されたプロテスタントの協会と女学院が続く>といった記述にみえるとおり、カタカナ固有名詞は比率が劇的に下がり、いまではグーグルストリートビューと食べログで確認できる記述が大半をしめる。

主人公のヤスオが文藝賞をとったエピソードから、ペログリ日記の経緯、そして、由利、江美子、といった彼女たちとの交流も、むしろ予定調和かのように進んでいく。幾度かのデートを経た記述は、もはや望郷のそれだ。 由利は僕を見つめる。そうして囁いた。

<「ねえキッスさせて、ヤスオ。あの日と同じように」
唇を、合わせる。すると、然しもの“記憶の円盤”もすべては捉えきれぬほどに数多くの三十数年間のさまざまな場面が眼瞼に映し出される。次第に由利の花唇も開いていく。あたかも抽送を繰り返すかのように、二人の舌が絡まり始める。樽熟成の効いた芳醇な体軀のヴィーノ・デッラ・パーテェとお互いの唾液が、混ざり合った>

と、最後にワイン名とともに過去への逢着が書かれる。

生きる目的がないことの充足

この『33年後のなんとなく、クリスタル』はまぎれもない傑作である。なぜか。それは人生の目的のなさが、決定的に人生に充実を与えているさまを描いているからだ。言葉を替えれば、意味の欠如が充実を与えるといってもいい。

私の周囲を見ていて、人生に充実を感じられないのは、人生の目的が明確な場合だ。
「家業を継ぐことになっている」
「医者になることになっている」
それなのに、その自分の人生にたいして「なんかもっと自由に生きたいよ」という。「オマエがうらやましいよ」と。

なんということだろう! これほど人生の目的が明確であるにもかかわらず、自分で悩むまでもなく明確であるにもかかわらず、それがゆえに充実していないとは! かつて、親子三代で宗教施設を建設する仕事があったという。初代はその仕事を引き受ける。三代目は完成を見届ける。二代目は、たんに橋渡ししかできない。とはいえ、迷うことなく、人生の意味が規定されているのだ。しかし、それでも人生の意味が規定されているがゆえに充実していないのだ。

『33年後のなんとなく、クリスタル』では、主人公の過去談が語られる。知事時代、衆議院時代、参議院時代……。さまざまなエピソードが語られる。それらの役職時の目的は明確である。やりがいもあったはずだ。ただ、それでもなお、現在のほうが幸福なのだ――という印象は拭いがたい。犬の散歩をし、メディアに出つつ、「なんとなく」文化人な生き方。

それは『なんとなく、クリスタル』の主人公と通じるものがある。目的もなく、「なんとなく」モードを求め続ける、楽しい生き方。
繰り返すと、逆説的ではあるものの、生きている目的のなさこそが、生に充実を与えるのだ。

人生に必要な自己の中の快楽を優先する態度

本書『33年後のなんとなく、クリスタル』のオビでは無数の文化人が本書を絶賛している。しかし、その評者のほぼ全員が、同書は『なんとなく、クリスタル』と同じくていどには歴史的な書籍になりえないと感じているのがわかる。表面的には絶賛しながら、心の底から信じていないようにしか読めないのだ。

冒頭で、流行と不易について書いた。どちらかというと、『なんとなく、クリスタル』が流行であり、大人になった港区おじさんの黄昏を書いた『33年後のなんとなく、クリスタル』のほうは不易であるように思える。しかし、実際は逆である。『なんとなく、クリスタル』が不易で、『33年後のなんとなく、クリスタル』は流行だ。

きっと田中康夫さんは『なんとなく、クリスタル』で、青年少女が小説を読み、なんらかの人生訓を引き出す、という構造そのものを破壊しようとしていたのだ。だからほんとうは、小説から意味を引き出すのではなく、消費を通じて快楽を引き出すものの到来を示したんだと私は思う。岩波文庫の感動と、ルイ・ヴィトンのバッグを手にした感動は等価だと田中さんはいったけれど、それこそ、意味ではなく自己のなかの快楽を優先する態度の嚆矢だったはずだ。

という意味では、『33年後のなんとなく、クリスタル』は傑作だと書いたけれど、その意味では、人生の目的のなさと、それゆえの充実をもっとも純化した形で書いている『なんとなく、クリスタル』はより傑作だったと思う。私は消費論ではなく、人生論として同書らを読みたい。

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