小谷野敦著『文豪の女遍歴』(幻冬舎新書)――夏目漱石、森鷗外、谷崎潤一郎ほか、スター作家62名のさまよえる下半身の記録。姦通罪や世間の猛バッシングに煩悶しつつ、痴愚や欲望丸出しで恋愛し、それを作品にまで昇華させた日本文学の真髄がここに。

 

 谷崎潤一郎 (一八八六 〜 一九六五) Junichiro Tanizaki

 谷崎は「大(だい)谷崎」と呼ばれるが、これは偉大だからではなく、弟の精二も作家だったから「大デュマ」「小デュマ」と同じように区別のために言われ始めたのである。

 日本橋の裕福な商家の生まれで、父は婿養子、母方の祖父がやり手だったが、祖父が死んだあと、家が没落するが、成績優秀だったため援助があって、東大国文科へ進み、大貫晶川(しょうせん、岡本かの子の兄)や和辻哲郎らと第二次『新思潮』を出し、二十五歳で「刺青」を発表し彗星のごとくデビューした(処女作は戯曲「誕生」)。

 浅草十二階下の「魔窟」と呼ばれる娼婦に通ったりして梅毒にもなったが、大正改元の頃、真鶴館というところに滞在して、従兄の妻と密通し、ばれて女は離婚され、谷崎も出奔して行方不明になり、自殺を考えたこともあった。

 その後、群馬県前橋出身の藝者になじみ、結婚を望むが、相手に旦那がいたので、その妹で、一時藝者に出ていた千代と結婚した。翌年女児が生まれ、鮎子と名づけたが、鮎はもともとナマズの意味だというので、のち「あゆ子」と仮名で書くようになる。

 だが谷崎は、あまりセックスがうまくない千代に失望し、虐待するようになる。さらに、千代の妹でエキゾチックな少女・小林せい子が同居するようになり、谷崎は十四歳くらいのせいとセックスしてしまい、これが『痴人の愛』の「ナオミ」のモデルになる。谷崎は映画会社と契約して映画のシナリオを書くようになり、せい子を葉山三千子の名で女優として売り出そうとする。

 年少の友人・佐藤春夫は、千代に同情してこれが恋に変わり、千代を譲ってほしいと言う。谷崎はせい子と結婚するつもりで承諾するが、千代が佐藤との恋で美しくなったのと、せい子から断られたのとで前言を撤回し、佐藤と谷崎は絶交する。これを小田原事件という。

 関東大震災が起こり、地震嫌いの谷崎は関西へ移住する。時代は昭和に変わり、佐藤とも和解する。千代は、和田六郎という青年と恋をし、谷崎は和田に千代を譲ろうとするが、和田が、千代を幸せにする、と明言しないため躊躇し、佐藤がこれに反対する。この時のことを書いたのが『蓼喰(たでく)ふ蟲(むし)』である。和田は、のち佐藤に弟子入りして推理作家の大坪砂男になる。

 昭和五年(一九三〇)、谷崎はついに千代を佐藤に譲ることにし、八月に三人連名での声明文を印刷して新聞社などに送った。ニュースになり毀誉褒貶(きよほうへん)が渦巻いた。谷崎は自宅を逃れ、東京へ出て、新しい妻候補の古川丁未子(とみこ)に会った。谷崎は数年前から、スタンダール、ハーディなどの翻訳に大阪女子専門学校の生徒を使っており、丁未子もその一人で、谷崎の推薦で文藝春秋社の記者になっていた。当時四十四歳の谷崎の二十一歳下の美しい女性で、翌年さっそく結婚したが、すでに谷崎は昭和二年に、根津松子という人妻と知り合っていた。松子は大阪の豪商森田家の次女で、根津清太郎というやはり豪商の跡継ぎと結婚して一男一女を儲けていた。

 ところが谷崎の浪費のため、谷崎が建てた岡本の家を売りに出し、新妻の丁未子と高野山に籠ることになり、家売却のめどがたって下山したが、根津家の商売も傾いて、松子は阪神間に住んでおり、谷崎らはその隣に越した。根津は松子の末妹・信子と駆け落ちするなど夫婦仲は壊れていた。そして谷崎はある日松子に「お慕い申し上げております」と告げ、二年たらずで丁未子と別れることになる。根津とは印鑑を盗みだして離婚届を出し、阪神青木(おおぎ)で二人は隠れるように住んだ。谷崎は松子を「御寮人(ごりょん)さん」と呼び、自分は家来だと言い、そこから『盲目物語』『蘆刈(あしかり)』『春琴抄』などの女人崇拝マゾヒズムの作品ができた。谷崎は、自分の先祖が近江から出たことを知り、石田三成を尊敬した。松子は大阪人として豊太閤(ほうたいこう)びいきだったから、谷崎は松子を茶々に、自分を三成になぞらえて『春琴抄』を書いたのであろう。

 谷崎は、「順市」などと手紙に署名し、下男のなりをして、洗濯までしたから、松子はある時耐えられなくなって友人の家へ駆け込み、洗濯をさせてもらったという。しかし、この「佐助ごっこ」も、作品ができるとほどなく終わる。『吉野葛』や『文章読本』『潤一郎訳源氏物語』が売れて経済的に潤い、反高林(たんばやし)の家に、松子の妹の重子、松子の娘で養女にした恵美子らと住むようになり、重子の見合いが続いて、この時のことを作品化したのが『細雪(ささめゆき)』である。

 小説にある通り、重子は徳川家の一族の渡辺明と結婚するが、戦争が激化すると、谷崎は松子、重子、恵美子とともに岡山県に疎開し、明は一人北海道へ赴任していった。重子は『細雪』の雪子で、それほど美しくはないのだが、谷崎は「こいさん」と呼んであたかも二番目の妻のようで、松子と重子で谷崎を争うようなこともあった。

 戦後は十年ほど京都に住み、松子の息子の清治(せいじ)を渡辺家の養子にするが、明は若くして死んでしまう。その渡辺清治と結婚したのが、画家・橋本関雪(かんせつ)の孫・千萬子(ちまこ)であった。谷崎は六十歳を超えて高血圧のため病気になり、不能になるが、この千萬子をかわいがり、これが『瘋癲(ふうてん)老人日記』(一九六二)の颯子のモデルになる。

 最晩年の、谷崎と千萬子の往復書簡集が出ると、これが『瘋癲老人日記』より面白かった。千萬子も、美人というのではないのだが、谷崎はその悪女ぶりに惚れこんで、せっせと手紙を書いている。『瘋癲老人日記』に描かれた、颯子の足で頭を踏んでもらうという足フェチの痴戯は、小説に書いたあとで実際にホテルで千萬子にやってもらった。小説にあるようにおねだりもしたから、ここにおいて、松子と重子は結束して千萬子排撃のために動き、千萬子と交際しないことを谷崎に誓わせた。

『台所太平記』にあるように、谷崎家には美しい女中を置き、中には谷崎のお気に入り、あるいは愛人もいて、谷崎が死ぬ十日前にも、その一人を連れて外出したという。

 谷崎が晩年に書いた随筆「雪後庵(せつごあん)夜話」で、松子が谷崎の子を妊娠した時、「藝術的な雰囲気を守りたい」と言って谷崎が堕胎させたということが書いてある。この話は流布していて、今でも信じている人がいるが、戦争中に書いた随筆「初昔(はつむかし)」では、数人の医師が、松子の健康状態から産むのはムリだと中絶を勧めたとあり、こちらが本当だろう。松子は自分の随筆でも、谷崎に強要された話をくりかえしているが、そのほうが同情されるからである。

 谷崎を研究している人は、だんだん松子の正体に気づく。私のように「丁未子派」になる人も多い。松子からいろいろ話を聞きだした英文学者の稲沢秀夫の『秘本谷崎潤一郎』という私家版の本があるが、そこで、ある女性が松子について、「あの人、人気者ですからね」とぽつりと漏らす箇所がある。松子とは、そういう女だったのである。

 なお谷崎の弟子だった武智(たけち)鉄二の映画『紅閨夢(こうけいむ)』(一九六四)は、くだらない映画ながら、谷崎(茂山千之丞〈しげやませんのじょう〉)と松子(川口秀子)が実物によく似ているので必見である。

 

 *参考文献
 ・小谷野敦『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』中央公論新社、二〇〇六

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小谷野敦『文豪の女遍歴』

下司だ、覗き見趣味だと言われようと、文学者の異性関係を知るのは楽しい。彼らが当時の姦通罪に怯え、世間の猛バッシングに耐えながらも不義を重ねたり、人間の痴愚や欲望丸出しで恋愛し、破滅と蘇生を繰り返し、それを作品にまで昇華させるタフさに畏怖すら覚える。小説はモデルなど詮索せず、文章だけを虚心坦懐に読めと言う人もいるけれど、そんなつまらない味わい方はしたくない――。森鷗外から太宰治、芥川龍之介、谷崎潤一郎ほかスター作家62名の赤裸々な性愛の記録。日本文学の真髄と、生の根源がここに。