小谷野敦著『文豪の女遍歴』(幻冬舎新書)――夏目漱石、森鷗外、谷崎潤一郎ほか、スター作家62名のさまよえる下半身の記録。姦通罪や世間の猛バッシングに煩悶しつつ、痴愚や欲望丸出しで恋愛し、それを作品にまで昇華させた日本文学の真髄がここに。

夏目漱石 (一八六七 〜 一九一六) Soseki Natsume

 漱石、名は金之助。私がいたった結論は、漱石は一度しか結婚せず、多くの子供をなしたが、妻以外の女とはセックスせず、娼婦を買ったこともない、というものである。

 なぜ漱石が「国民作家」になったかといえば、東大卒の英文学者で、東大講師をしており、明治四十年代以降、自然主義が盛んになって、性的な経験を描く作家が増えた中で、漱石は性的なことがらを書かなかったから、中産階級の家庭で、漱石なら読んでもいいということになったからである。大正五年(一九一六)、漱石門下の赤木桁平(こうへい)は、「読売新聞」に「「遊蕩文学」の撲滅」を書いて、近松秋江、吉井勇、久保田万太郎、後藤末雄など、情痴小説を書く作家を攻撃したが、その際、森鷗外や小山内薫や谷崎潤一郎はなぜか除外された。そして、そんなことを言ったら、漱石か小川未明くらいしかそういうことを書かない作家はいないじゃないかとも言われた。未明は今では童話作家として知られるが、当時は普通の小説家だったのである。

 漱石の弟子には、作家になった者より、学者になった者のほうが多いが、これも一つには鏡子夫人が、英文学者の妻になったのであって小説家の妻になったと思っておらず、弟子たちには学者を望んだからである。

 岩波書店は、岩波茂雄が漱石の知遇を得て、その『こゝろ』を刊行するところから始まった出版社だが、そのため、「真面目」な出版社だと思われており、昭和に入って、藝者や娼婦との交友を描く永井荷風の全集が岩波から出た時は世間が驚いたという。だが岩波はその後も概して「まじめ路線」で、今日に至っている。

 それでも漱石は「恋愛小説」のようなものを書いた。だがそこには一貫して女性嫌悪の空気が流れており、『こゝろ』などは、女に惑わされて友情を損なったという女性呪詛の声が響いている。『草枕』には、有名な那美の裸身の描写があるが、漱石の性的描写とはこの程度である。

 だが何しろ漱石は人気があるから、「漱石の恋人探し」が盛んに行われた。第一に疑われたのは、美学者の小屋保治と結婚し、小説を書いた大塚楠緒子で、本名は「くすお」だから「くすおこ」と読まれるが「なおこ」とする人もいる。この人は漱石の弟子筋で、漱石の紹介で「朝日新聞」に「空薫(そらだき)」などを連載したが、明治四十三年(一九一〇)に若くして死んでしまう。その際漱石が「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」という俳句を詠んだので、疑われて、漱石は才色兼備の楠緒子が好きだったのだと言われた。しかし、それほどの美人ではない。

 あとは、『草枕』に、那美という奔放な女が出てくる。これのモデルは、漱石の弟子の森田草平と心中未遂をした平塚明子(はるこ)(らいてう)だと言われているが、この舞台となった小天(おあま)温泉で、漱石が遭遇したのは、土地の政治家・前田案山子(かがし)しの次女・卓(つな)で、これが那美のモデルの一人とされている。といっても、卓は漱石の一つ下で、二度の結婚に破れて実家にいた。漱石は第五高等学校教師として前田案山子を訪れ、卓に会うのだが、その時は双方三十歳前後で、卓が特に美しいわけではなかった。

 那美の裸体描写は、「しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛(れいふん)のなかに髣髴として、十分の美を奥床しくもほのめかしているに過ぎぬ。片鱗(へんりん)を潑墨淋漓(はつぼくりんり)の間に点じて(略)赤裸々の肉を浄洒々(じょうしゃしゃ)に眺めぬうちに神往(しんおう)の余韻(よいん)はある」。『太陽』一九九四年八月号に、佐伯順子は小天温泉へ取材に行き「漱石の描いた『自然』」を書いている。「『草枕』の画工をきどって湯につかる。もっとも男湯と女湯は別。小説にならうならば、私は同行のSさんとカメラマン(横山良一)が姿を消した男湯のほうへ、ワンテンポ遅れて登場、としゃれこまねばならぬところだが、裸で『神往の余韻』を感じていただく自信もないので、あきらめる。(略)とはいえこういう時、湯気の中に忽然と現われて“画(え)になる”のはやはり、男性の裸ではなく女性の裸のほうよね、とひそかに苦笑」。

 文藝評論家・江藤淳は、デビューしてほどなく、漱石は嫂(あによめ)・登世を恋していた、ないしは密通すらしていたと主張し、『漱石とその時代』(一九七〇)にこれを書き、さらに初期の漱石がテニスンを下敷きとして、アーサー王伝説のランスロットとグィネヴィアの不義の恋を描いたのは嫂との関係があったからだ、というのを『漱石とアーサー王傳』(一九七五)に書いて、慶大の博士号をとった。同じころ小坂晋(すすむ)は『漱石の愛と文学』(一九七四)で、江藤説を否定し、はさみこみの付録で平野謙と対談して江藤説を批判して、やはり好きだったのは楠緒子だとし、大岡昇平も江藤を批判した。

 

 あとは、若い頃井上眼科というところで見かけた、「たけながをかけた女」というのが誰か、というのも議論されたりして、最近、森鷗外の「舞姫」のエリスはユダヤ人だと言い続けている荻原雄一という人が、これは陸奥宗光の娘だ、などという新説を発表した。明治の美人みたいな企画では必ずと言っていいほど横顔の写真が出てくる、まあ絶世の美人である。

 江藤以後は、漱石の「恋人」探しも下火にはなったが、まだまだくすぶっているようである。それでいて、ちっとも「好きだった」とされないのが、弟子の野上弥生子で、これは野上豊一郎の妻になった、もと小手川(こてがわ)ヤエという作家で、百歳近くまで生きた。若い頃翻訳した、岩波文庫にも入っていたブルフィンチの『伝説の時代』(のち『ギリシア・ローマ神話』と『中世騎士物語』に分離)には、漱石が序文を書いている。

 漱石は見合い結婚したが、男なんだから、生涯に四人や五人、いいなと思った女がいるのが普通である。江藤のように、嫂との性関係があったとするならともかく、誰か一人に決めようとするのが土台おかしいので、漱石の場合は、実際の女関係はないに等しく、後世の人々の「恋人探し」だけがやたらと盛んだという例にしかならないのである。

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小谷野敦『文豪の女遍歴』

下司だ、覗き見趣味だと言われようと、文学者の異性関係を知るのは楽しい。彼らが当時の姦通罪に怯え、世間の猛バッシングに耐えながらも不義を重ねたり、人間の痴愚や欲望丸出しで恋愛し、破滅と蘇生を繰り返し、それを作品にまで昇華させるタフさに畏怖すら覚える。小説はモデルなど詮索せず、文章だけを虚心坦懐に読めと言う人もいるけれど、そんなつまらない味わい方はしたくない――。森鷗外から太宰治、芥川龍之介、谷崎潤一郎ほかスター作家62名の赤裸々な性愛の記録。日本文学の真髄と、生の根源がここに。