「この中に土方さん入ってねえんじゃねえの?」

早朝ガチャで4万溶かし、これから日給一万にも満たない会社へいかなければいけない戦士(ウォーリア)が立てた、一つの仮説である。
これは大きな恐怖だ。金塊が埋まっていると信じて穴を掘っている時は良い、しかし一度、「何もないのでは」という疑念が浮かぶと、掘り進むのが途端に怖くなる、ここでやめるべきなのでは、という考えさえも浮かんでくる。

つまり、祭のくじ屋の露店で、おとりとして出されているゲーム機などの豪華賞品に釣られ、延々と当たりの入っていないくじに有り金を溶かし続け、謎の紙製おもちゃを大量ゲットしているキッズに逆戻りしていないかということである。

キッズというのは大なり小なり馬鹿だ。
知識、そして経験がないのだから当たり前だ。むしろ馬鹿をやって知識と経験を得ていくのである。
飲み込みが早いキッズなら、このくじ屋の時点で「このようなものが当たる確率は極めて低く、そんなものに財を投じるより、確実に入手できる、もっと有益なものに金を使うべきだ」と学ぶのだ。

そして今、1ミリも飲み込めなかった元キッズ現中年がここにいる。
当たりが入っているのかもわからない、ガチャを大量に引いて、あのビロビロ伸びる謎の紙玩具という名の低レアカードを大量ゲットしているのだ。

「まるで成長していない」

今多くの人間が安西先生になっていることだろう、だが否である、私は子供ではない、大きく成長したのだ。

何故なら「まず子供は4万も溶かせねえ」
石油王の子供はどうか知らないが、私が子供の時は4万なんて金はまず持ってない。
持ってない金は溶かせない、しかし私は4万持っていて、それを数十分で溶かした、それは何故か。

中年だからだ。

中年だから、大人だから、前哨戦、否、戦果を祈る奉納の儀として、土方歳三の御霊に4万捧げることができたのだ、子供だったら、この勝利への布石さえも配置できなかった、危ないところであった。

それに、いくらこらえ性のない子どもでも、手持ちの現金が尽きたら諦めるはずだ、何故なら子供は弾を得る術を持たぬからだ。

だが中年は違う、例え手持ち現金、口座の金が尽きようとも、クレジットカード、リボ払い、キャッシング、隠し剣 鬼の爪が山ほどある。

大人になると「ない金を溶かせる」という異能力に目覚めるのだ。存在しないはずの弾を発射できるのである。
つまり、今そこにない金でガチャを回す我々は全員「魔弾の射手」だ。
ただし、7発中6発どころか、百発百中狙ったところに当たらないこともあるので「悪魔に魂を売っている」こと以外、ドイツ歌劇との共通点は特にない。

子供は基本的馬鹿である。では大人になると賢くなるのかというと、皆そうというわけではない。

巨大な馬鹿になるのだ。

類義語としては、そびえ立つクソである。
世の中の事件を見て欲しい、たまに未成年がやらかしていることもあるが、大体、成人後のスケールのでかい馬鹿とそびえ立つクソばかりが登場してくる。

大人になると子供の時は与えられてなかった、自由や権利という武器が無条件に与えられてしまうため、やらかすときの規模が子どもの比ではないのだ。まさに「馬鹿が戦車でやってきた」のである。

しかし、馬鹿のままでかくなるのも悪いことだけではない。
なぜなら「大きいことは良いこと」であり「大は小を兼ねる」からだ、つまり小さいことは大きなことで内包できる、ということである。

つまり私は、朝から4万溶かしたという小さな事実と、土方さんが本当に入っているのかという僅かな恐怖を、この巨大さで飲み込むことに成功したのである。

私がキッズや、スケールの小さい馬鹿、日和山ぐらいのクソだったら、この時点でキャパオーバーを起こし、土方歳三を断念していたかもしれないし、安西先生も「諦め切れなくても、試合は終わりだ」と、その時点でミッチーがグレることを言っていたかもしれない、危なかった。

当たりの出ない露店のクジに「こんなものに金を使うべきではない」と学んだキッズもいるだろう、だが学びというのは常に一つではない、国語から語学を学ぶものも入れば、道徳を得るものもいるのだ。

私は、約三十年前のあの日「当たらないなら。ここにあるクジ全部開ければいい」つまり「出るまで回す」をすでに学んでいたのである。

だが子どもの時は、必勝法を得ても実践する資本がなかった。

しかし今は違う、私は中年で、巨大なのである。

少なくとも4万如きで諦めたり、試合を終了させないぐらいにはでかい大人になった。

9月15日 午前6時。
諦めてないから試合続行である。

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