昔から、人との会話というものが全然わからなかった。

 何を話したらいいのか全く見当がつかない。いい年になった今ではわからないなりにその場をしのぐ術をいろいろ覚えたのである程度取り繕えるようになったけれど、10代や20代前半の頃は本当に会話が全然できなくて、自然に会話ができる(ように見える)普通の人々に対して敵愾心を募らせていた。

 なんでみんな会話なんていうよくわからないゲームが自然にできるんだろう。あのつまらなさにどうしてみんな耐えられるんだ。そもそも話題というものがわからない。天気の話とかどうでもいいしテレビの話とか全然知らない。世間話って無意味だろ。相手の発言の一つ一つにどういう意図があるのか全く読み取れない。どう応答すれば正解なのか。難易度がベリーハードの早押しクイズ大会だ。なんでみんなそんなに喋りたいことがあるんだろう。僕は人に対して喋りたいことなんてほとんどないんだけど。僕に対して全く興味ない癖に僕に質問してくるのをやめろ。それに渋々答えると「ノリが悪いね」みたいな目で見るのもやめてくれ。

 そもそも人と対面しているというだけで緊張してどうふるまえばいいのかわからなくなるのに、その上会話なんていうルールの分からないゲームをふっかけられたらパニックになるしかない。でも、社会はそれを当たり前のこととして強要してくるのだ。

 

 大学生の頃、愛嬌があってハキハキしていて人に好かれるタイプの後輩に、僕は人と何を喋ったらいいか分からないから社会に出るなんて無理だ、という話をすると、彼はこんなことを言った。

「こないだテレビで鶴瓶さんが『わろてたらええねん』って言ってましたよ」

 それを聞いて僕は、そんなんでけへんわ、と思った。全く何もわかってない。そんなの君とか鶴瓶さんみたいなコミュ力があって人に好かれるタイプの人間だから言えるだけだ。僕みたいな暗くて何考えてるか分からない人間がひきつった笑いを浮かべても、「気持ち悪い奴」が「ニヤニヤしてる気持ち悪い奴」になるだけだ。

 当時はそんな風に思っていたのだけど、でも今改めて考えてみると、わりと今の自分は「わろてたらええねん」でやっていってるなと思う。鶴瓶さんは正しかった。

 その後輩とは大学を出てから連絡を取っていなかったのだけど、その後人づてに聞いた話だと、新卒で入った会社がすごいブラック企業で、激務で心を病んで自殺してしまったらしい。僕だったらどんなに不義理や悪評をまき散らすことになったとしても、そんな会社3日で辞めていただろうのに。愛想が良くて協調性がある彼だからこそ、断りきれずにいろいろ抱え込んでしまったのかもしれない。本当にこの世界は何が正しいのかわからない。

 

 今でも人との会話はよくわからない。でも一つわかったことがあって、それは「世の中の多くの人は自分の話を聞いてもらいたがってる」ということだ。だから、相手が何を話しているのかよくわからなくても、ひたすら相槌を打って聞き役になっていればいいのだ。

 相手の言っていることがうまく頭に入ってこなかったとしても、「あー」とか「へー」とか「ほー」とか、「すごいですね」とか「ひどいですね」とか「面白いですね」とかをそれっぽい表情で言っていればなんとかなる。どういう反応をしたらいいかわからないときは、どんな話題にも対応できる「いやー、世の中にはいろんなことがありますね」というフレーズなんかも使える。ただしこれはあまり多用しすぎると相手がバカにされたように感じて不機嫌になったりするけれど。

 単純だけどオウム返しも有効だ。

「こないだ見た家、すごく大きかった」

「へー、すごく大きかったんだ」

「びっくりしたよ」

「それはびっくりするよね」

 みたいに、相手の言ったことをそのまま繰り返すだけで意外と会話っぽくなるものだ。これは会話の内容を理解していなくても、相手の発言の語尾だけ聞いていればできるので楽だ。全く情報量がないやりとりだけど、そんなことは誰も気にしない。

 相槌だけでは会話が止まってしまうときは質問をすればいい。「最近何か面白いことありました?」とか「その後例の件はどうなりました?」とか。みんな自分の話を聞いてもらいたがってるので水を向ければいくらでも話してくれる。

 

 僕は大体の場合会話の内容が理解できないまま勘で適当に相槌を打っているので、多分3回に1回くらいはちょっとずれた回答をしている(もっと多いかもしれない)。こちらが相槌を打ったときの相手の反応が微妙だったりすることでそのことに気づく。

「ひどいですね」と顔をしかめるべき場面でうっかり面白そうに笑い声を上げてしまった。1ミス。相手がもう少し話したがってたのに流れをぶった切って話題を別の方向に切り替えてしまった。2ミス。

 でもそんなときでも、とりあえず穏やかに笑っていれば殴られることはない。受け答えが微妙にずれていても、会話をしようとしているという姿勢は汲んでくれる。

 世の中の人たちは大体みんな話を聞いてもらいたがっているものなので、聞き役に回っている限りはそんなに咎められることはないものだ。たとえ相槌が微妙にずれていても、話したい人は構わず話し続ける。話したい人というのは自分の気持ちを口から発声した時点で8割くらい満足しているので、それを相手が正しく理解しているかどうかなんてのは些細な問題なのだ。わろてたらええねん。

 

 三十歳前後から僕はそんな感じで会話を表面上はこなせるようになったので、人間関係はずいぶん広がって、友人や知人が増えた。今も毎日のようにいろんな人に会ってニコニコと話を聞いている。

 だけどそれはやっぱり疲れることではある。会話の最中は、わからない内容を推測しようと必死で頭を使い続けているので神経を消耗するのだと思う。会話を続けるのは一時間くらいが限界だ。一時間を超えると頭がぼうっとしてくるし、喋りすぎたせいで口の筋肉や舌が麻痺してくる。そうなってきたらそれとなく会話を抜けるようにしている。

 多分、自然に会話ができる人というのは、頭を使って考えなくても反射神経で0.2秒くらいでレスポンスを返すことができる。だけど僕みたいに自然にできない人間は、毎回頭で考えてからじゃないと反応ができないので、どんなに急いでも返答をするのに0.7秒くらいかかってしまう。

 この0.5秒の差は、わかる人にはすぐわかるのだ。あいつ普通っぽく振る舞おうとしてるけど、なんか違うな、と。どうしても越えられない0.5秒の壁が今でも、こちら側とあちら側とを隔てている。

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pha『ひきこもらない』

家を出て街に遊ぶ。
お金と仕事と家族がなくても、人生は続く。
東京のすみっこに猫2匹と住まう京大卒、元ニートの生き方。

世間で普通とされる暮らし方にうまく嵌まれない。
例えば会社に勤めること、家族を持つこと、近所、親戚付き合いをこなすこと。同じ家に何年も住み続けること。メールや郵便を溜めこまずに処理すること。特定のパートナーと何年も関係を続けること。
睡眠薬なしで毎晩同じ時間に眠って毎朝同じ時間に起きること。
だから既存の生き方や暮らし方は参考にならない。誰も知らない新しいやり方を探さないといけない。自分がその時いる場所によって考えることは変わるから、もっといろんな場所に行っていろんなものを見ないといけない。