今回紹介するマンガは、ヨコイエミの『カフェでカフィを』です。たぶんこれが初めての単行本(つまり、いわゆる処女作)ですが、その完成度は非常な高さに達しています。

 絵柄は、ちょっと高野文子を思いださせるような繊細さと、オノナツメに通じる感じのクールさを合わせもっています。また、描線の潔さがフランスのマンガ(BD/ベーデー)を連想させるところもあって、要するになかなかおしゃれです。

 この本は全部で16もの短編を集めているので(1作平均10ページほど)、短編集というよりは掌編集という作りですが、1つの短編に出た人間や物が、別の短編に出てきて違うドラマを作りだし、全体がなんとなくゆるやかにつながりあっているという、かなり凝った構成になっています。

 かつてロバート・アルトマン監督が得意とした同時多発的群像ドラマという作劇法にも似ているのですが、アルトマンほど緊密でないというか、切羽詰まった作りになっていません。その絶妙のゆるさこそ、この作者の尊重すべき個性というべきでしょう。

 具体的にどんな感じかというと、「マリアージュ」という短編には、同じ職場で働く若い女性と男性が出てきます。たまたま残業で二人だけになったとき、男性が自分用に買ってきたドーナツを女性にあげ、女性が男性にコーヒーを入れてあげたことから、二人のつきあいが始まります。

『カフェでカフィを』というタイトルどおり、この短編集ではコーヒーやコーヒー豆やケーキや喫茶店が物語の重要な触媒になっています。というのは、コーヒーや喫茶店の空間には、仕事や時間の呪縛をちょっとだけゆるくしてくれる得がたい効用があるからです。人間をゆるく、無防備にしてくれる時空間、その「カフェでカフィを」を飲んでいると、「この世界も/捨てたもんじゃないかもって」思えてくるのです。

 さて、「マリアージュ」に出てきた男女のその後が、続く短編「ミス・ベンダーの旅」で描かれます。ところが、二人のささやかなデートを見守り、その様子を読者に語ってくれるのは、街角の自動販売機と、ブラック微糖の缶コーヒーの会話なのです。

 二人の男女の行方を見届けた瞬間、ブラック微糖は客に買われて自動販売機と別れてしまいます。しかし、その後、ブラック微糖と自動販売機の運命はある田舎町で交錯し、その田舎町を舞台に、また別の茶飲み話が続いていくという絶妙のドラマの展開になっています。

 そうした運命の流れのささやかな交錯のなかで、野点(のだて)に集まる田舎の人々とか、コンビニの2階のトイレに閉じこめられた女性とか、3人とも70歳をこえた爺さんたちのマンガ同好会とか(このなかに登場する爺さんの一人の死んだ奥さんのヌード・デッサンの話が最高!)、次々に微妙にゆるい笑いを振りまくエピソードが連続して、もっともっと続編を読みたくなります。

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