秋の叙勲の季節になると思い出される、懐かしい人がいます。

 デイヴィッドに初めて会ったのは、私が24〜25歳の頃だったでしょうか。当時、彼が借りていた東中野の小さな庭付きの一軒家に、年上の友人に連れられて、遊びに行きました。
 友人が、花屋で買い求めたクロッカスの鉢植えを手土産に持参したことを覚えているので、あれはきっと春先だったのでしょう。
 何年か前に、大学を定年で退き、無聊を託っていたデイヴィッドの気散じにと伺った、その初対面の折りの詳細について、あまりよくは覚えていないのですが、帰り際にデイヴィッドが友人に言った一言だけはよく覚えております。
 ありがとう、どちらの花もとてもエンジョイアブルだったよ、とデイヴィッドは言いました。
 クロッカスと君のことだよ、と友人は笑って、私に言いました。

 イギリスの何代か続いた医者の家系に生まれ育ったデイヴィッドは、オックスフォードで中国語を学び、第二次大戦でマレー半島に従軍して、終戦を迎えた後に日本に渡り、日本の私学で英文学の教鞭をとることになったのだそうです。
 友人だった三島由紀夫の小説の中に、自分をモデルにした人物が登場するのだ、といつか話してくれたことがあります。最悪なことに、とデイヴィッドは眉を顰めて、語調を少し荒げて続けました。その小説の中で、ミシマは私をスペイン人にしたんだ。それから、デイヴィッドはからからと笑い、スコッチのオン・ザ・ロックスを飲み干しました。
 デイヴィッドはいつも酒を飲んでいました。固形物をあまり口にせず、ぐいぐい酒を飲みながら、ひっきりなしに煙草を吸い続けて、時々、嫌な咳をしました。
 高潔で毒舌で、皮肉のこもった冗談が得意でした。

 ある時、私が失恋をし、ひどく落ち込んで、デイヴィッドの家を訪ねたことがありました。
 デイヴィッドは、スコッチとピースの丸缶を私に勧め、私たちは煙草を吸いながら、酒を飲み、いろいろな話をしました。
 ふと気がつくと、その煙草には、菊のご紋が入っておりました。デイヴィッドが叙勲を受けた時に下賜された、とっておきの煙草だったのです。
 辛辣な皮肉屋の仮面をかぶっておりましたが、とても優しく濃やかな人でした。

 繊細だったから、孤独だったから、溺れるように酒や煙草に耽るところがあったような気もいたします。
 酩酊状態で転び、骨折をするというようなことが、何回かあったような記憶があります。そして次第に、そういったアクシデントを怖がり、あまり外出もしないようになって行きました。
 
 私はその後、渡米をし、あまり頻繁にデイヴィッドと連絡を取れないようになってしまったのですが、一時帰国の際、久しぶりに訪ねると、彼は鼻に呼吸器を通しながら、煙草を吸っておりました。
 先般、癌の手術を受けたのだ、と彼は淡々と話してくれました。幸い、担当医が若い、なかなかいい奴なので、彼の言うことだけは聞くようにしているのだ、と話して、デイヴィッドはまた煙草をふかしました。

 その次の年の彼の誕生日に、私はいつものようにアメリカから、デイヴィッドにバースデー・カードを送りました。
 筆まめな彼から、一週間が経っても、二週間が過ぎても、返事がありませんでした。

 嫌な予感がして、東京の共通の友人に国際電話をかけて確かめると、デイヴィッドは既に逝った後でした。
 友人たちが見舞いに駆けつけた時にはもう意識がなく、全身に管をつながれて、誕生日の数日前に逝ったのだそうです。
 唯一の血累である、イギリスに暮らす甥が遺骨を引き取って行った、ということでした。

 孤高の彼らしい最期だと思いました。

 三島がある日、ふいにデイヴィッドのもとを訪れたことがあった、と聞いた話を思い出しました。
 三島は、大きな薔薇の花束を抱えて来て、それをデイヴィッドに手渡すと、会話もそこそこに辞去したのだそうです。
 その日は、デイヴィッドの誕生日や特別な日ではなく、デイヴィッドは三島の来意について、首をひねりました。
 それから数日して、デイヴィッドはニュースで、三島の自決を知ることになります。

 デイヴィッドは思いました。
 ああ、あれが彼の最後の挨拶だったのだなあ、と。

 今日会った人と、明日はもう会えないかもしれない。それが、私たちの人生です。
 人生は、燃え尽きて行く星が放つ、光の軌跡のように感じられます。この世界には、そういった無数の光が舞い溢れ、ところどころで交わり、やがてすべてが束の間に、消えて行くのです。

 過ぎ去る一瞬一瞬を愛し、交わる人を慈しみ、惜しみない思いを降り注ぎながら、生きてまいりたいと思います。

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