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命からがら署へ帰還した消防士・圭吾(けいご)。
無事を知らせようと母親へ電話をかけるが――。


  * * *

 

 マラソン爆破テロ事件の緊急報道がメディアを駆け巡ったその日の午後。右腕を何針も縫う手当てを終えて、圭吾は勤務する消防署へ報告に戻った。

 髪も制服も埃まみれの血まみれなので、ケガの部分をラップで覆ってシャワーを浴びる。

 裸になると、体に無数の痣ができていた。砂をまいたような火傷の痕が顔にあり、背中の一部は皮膚が破れて焦げていたが、その痛みすら、シャワーが当たって初めて感じたほどだった。髪の毛はところどころが焦げていて、両手に擦り傷もできていた。

 思い切り泣いたせいで気持ちはさっぱりしていたが、人間が人間を襲った悪魔の行為は胸の裏側に貼り付いて、じくじくと血を流し続けているようだった。あの事故で何人の命が失われ、何人が生死の境を彷徨って、何人が健常だった身体機能を失ったのか。

 せめて救われたと思うのは、出血性ショックで一時は意識不明であった伊藤が病院で意識を取り戻し、回復に向かっていると知ったことだった。

 頭を洗っているとき、今さらのように警察官が拾った野球ボールのことが思い出された。日曜の早朝に肩を落として行く彼を、冴えない中年のオッサンだと思った。疲れきって生気がなく、そのまま踏切に飛び込んでしまいそうにも見えた。

 それなのに、彼は犯人に組み付いて、人々を避難させたのだ。

「くそう……」

 ひりひりする顔面に、圭吾は敢えてシャワーを浴びた。

 もしも彼がいなかったなら、犠牲者はもっと増えていたことだろう。

「あのボール」

 よれよれスーツの潮垂れた男が大切に持っていた野球のボール。あの人は誰だったのか。

 圭吾は独りシャワーの下で頭を垂れて、潮垂れた英雄の冥福を祈った。

 制服を着替えて署長室へ向かうとき、突然、母親と恵利のことを思い出した。緊迫する事態が連続したため、自分でも驚くほど、家族のことを忘れていたのだ。

 きっと心配したに違いない。そうでなくとも商店街は情報が早いのに。

 ――大変大変、ニュースを見たかい? マラソンで事故だってよ。えらいこっちゃ――

 強面の虎吉会長が、どす黒く上気した顔でキングとクイーンへ飛び込んで、騒ぐ姿が目に浮かぶ。

「……やべえ」

 圭吾は慌ててスマホの履歴を確認したが、母の着信履歴がひとつあるだけだった。口うるさくて心配性の妹は、少なくとも十回以上連絡してきてもいいはずなのに、一度もない。

「おかしいな」

 念の為、恵利に電話してみた。自分は無事だと伝えようとしたのだが、呼び出し音が鳴るばかりで、妹は出なかった。店へも電話してみたが、誰も出ない。

 呑気だな。それとも接客中で手が離せないのかなと通信を切ると、直後に電話がかかってきた。

「ああ母さん? ごめん。俺は無事だから」

 よかったという声が、即座に返ってくると思った。もしくは無事だったのねという声が。けれど母親は静かに深く息を吸い、震える声でこう告げた。

「圭吾……落ち着いて、よく聞いて。恵利ちゃんがね……さっき、恵利ちゃんが」

「恵利が?」

「し……死……じゃった……」

「えっ」

 なに言ってんだ。冗談でもそんなこと。しかもこんな事故が起きた日に。

 言葉をきちんと理解できていないのに、なぜだか指に震えが走った。心とまったく裏腹に、唇が、笑った形に引き攣っていく。

「ばか……なに言っ」

「本当なのよ。母さん、今、病院にいて……」

 くっと息を詰まらせて、母は突然泣き出した。あとは 嗚咽に変わってしまって、泣き声しか聞こえてこない。なに言ってんだ。わけわかんねえ。いや、ほんとに、わけが、わからないって。

「交通事故?」

 唯一思い当たる状況を口にしてみた。

「ちが……違う……そうじゃなく」

「じゃ、なに」

 まさか恵利もマラソンを見に来ていた? いや、そんなはずない。そんなはずは、ないじゃないか。

「よくわから……病院で、急に倒れて……せんせ……いは、急性……心筋……塞と……」

 細長くて薄暗い廊下の景色がぐわんと歪み、そして突然、心の一部が真っ暗になった。

 吸い込まれそうな絶望など見えない振りで、圭吾は必死に考えた。心疾患は急死の上位を占める病因で、それは若者であっても例外じゃない。救急搬送に関わる中で多くの事例も見てきたが、でも、動脈硬化があったとか、不整脈を抱えていたとか、恵利にはそんな兆候はなかったはずだ。

「母さん、落ち着いて、説明して。いったい何があったって? 母さん、どこから電話してるの」

「びょうい……いんから……ここは……の……」

 途切れ途切れの母親の言葉が、活字のように思われた。心に生まれた暗黒が、じわじわと圭吾を侵食してくる。見えているのに、聞こえているのに、意味を理解できる気がしない。

 圭吾は廊下を駆け出した。報告を後回しにしてもらい、即時早退の許可を得るためだ。駆けながら、頭の中がグルグル回った。

 ――B型ってさ、偏執的でプライド高そうに見えるけど、心臓、ガラスでできてるのよね。ナイーブで、必要以上に傷つきやすいのよ――

 あれはたった数時間前の朝飯時だ。恵利がよそったごはんを食べて、自慢げな顔を眺めていたのは。

 ――お兄ちゃんは大雑把なO型だから、自分のテンションが低い時には、まわりのことなんか関係ないんでしょ――

 天真爛漫で、少しだけ生意気で……いつもと変わらぬ恵利だった。

 ――天気予報だと、今日は猛暑日になるみたい。気をつけてね――

 メッセージだって、くれたじゃないか。

 ――ジャジャーン!――

 これから死ぬって人間が、あんなスタンプを送ってくるか?

 署長室の前で足を止め、圭吾は呆然と空を眺めた。そうか、きっとこれは夢なんだと、本気で思った。爆発事故で頭を打って、白昼夢を見てるんだ。

 震える拳で署長室をノックする。すると、前触れもなく命を奪われた犠牲者たちが思い出された。ほんの数秒前までは、彼らも笑顔で旗を振り、ランナーも、声援を浴びながら走り続けていたのじゃないか。

「入りなさい」

 ――誕生日プレゼント、乞うご期待なんだから!――

 署長の声に、恵利のメッセージが重なって聞こえた。突然外で鳴き出した油蝉の騒音が、混乱に拍車を掛けてくる。

 耳に突き刺さる油蝉の鳴き声は、声なき圭吾の悲鳴を代弁するかのようだった。


 * * *


自爆テロ、妹の突然の死……圭吾に降りかかった悲劇はやがて、一本の線となる。
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内藤了『ゴールデン・ブラッド GOLDEN BLOOD』

東京五輪プレマラソンで、自爆テロが発生。現場では新開発の人工血液が輸血に使われ、消防士の向井圭吾も多くの人命を救った。しかし同日、人工血液が開発された病院で圭吾の妹が急死する。医師らの説明に納得いかず死の真相を追い始めた矢先、輸血された患者たちも圭吾の前で次々と変死していく——。胸に迫る、慟哭必至の医療ミステリ。