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昭和レトロな下町の商店街で、
物語の幕はにぎやかに上がる。

 

  * * *


第一章 マラソンの惨劇


 2018年8月5日。

 薄青い空に浮かんだ雲が、濃い群青の影になる。東の空が明るくなってくるにつれ、太陽の燃える匂いがするようだ。今日もきっと暑くなる。首に巻いたタオルで髪を拭きながら、歯ブラシを咥えて通りへ出ると、向井圭吾は頭上に腕を振り上げて背伸びをした。

 夜明け間近の屋外はまだ幾分かひんやりしているが、デコボコの空にかかる雲は薄くて、日中の気温が心配になる。熱中症や熱射病、脱水症状で搬送される患者が爆発的に増えるからだ。

 向井圭吾は28歳。東京消防庁第七消防方面本部の救急隊で救急救命士の職に就いている。彼が住むのは商店街の一角で、だから玄関前の『通り』がすなわち、自宅の庭代わりである。歯ブラシを操りながら屈伸運動をしていると、電柱の陰から太った猫がのそりと現れ、こちらを向いて、「にゃあん」と鳴いた。

 幅四メートル弱の往来は全長おおよそ700メートル。その両側に小さな店舗がひしめき合って並んでいる。立地が狭いので雨避けのアーケードなどはなく、頭上を縦横に電線が横切り、思い思いに突き出た店舗の庇(ひさし)が空をデコボコに切り取っている。

 明治通りと丸八通りを結ぶように東西へ延びるこの商店街は、交通アクセスが悪いためにバブル期の乱開発から取り残された。古い町並みが昭和レトロな面影を今に残して、『下町人情商店街』と呼ばれる地域だ。知らずに迷い込むとタイムスリップした気分になるが、ここで育った圭吾には、ありきたりで居心地のよい空間である。

 乱立するショッピングモールや大型店舗に押されて若い経営者の流出が続き、街の高齢化が進んだことで、一時は通りごと消滅の危機に瀕したが、その古臭さがSNSで注目を集めると、あっという間にはとバスツアーに組み込まれるほどの人気スポットになってしまった。長生きをしてみなければ人生はわからないものだと、古希を過ぎた商店街の強者(つわもの)は笑う。

 準備運動と歯磨きを終えて、そろそろ中へ入ろうと思った時に、向かいの洋品店のドアが開いて、割烹着姿のお婆ちゃんが現れた。ぶら下げたバケツから柄杓を抜いて、狭い通りに水を撒く。

「おはよ、ケサちゃん」

 圭吾に名前で呼ばれると、

「はい、おはようさん」

 老女は電信柱に水を掛けながら、おっとり答えた。

「犬や猫が、ここへおしっこするでしょう? それで電柱が腐っちゃうの」

「犬や猫だけじゃないと思うぜ? 昨夜その裏側で、ミキオさんが立ちションしてたから」

 水を撒く柄杓をピタリと止めて、ケサちゃんは色白の顔を圭吾に向けた。

「それ本当? まったくもう……あのバカったれ……」

 ふんっと肩を怒らせると、上品な風貌にそぐわぬ性急さでバケツの水を電柱にぶちまけ、店の奥へとって返した。

「あ、やべ……」

 思わず口が滑ったと、反省したがもう遅い。

 洋品店のケサちゃんは70を幾つか越えているのだが、昨年、一回りも若い夫と再婚した。ミキオさんという夫はパチンコ好きの飲んべえで、もっぱら商店街の賑わし役。街の会合に出ることと、仕入れの他は仕事をせずに、大抵ぷらぷら遊んでいる。そして酔っ払って帰った夜は、電柱に気持ちよく放尿する癖があるのだ。

「ちょいと! ミキオさん!」

 洋品店の二階から、ケサちゃんの怒鳴る声がした。

「起きて表の電柱洗いなさいよ。いい年して子供みたいに、なんですかっ」

「電柱? あんな細長くて背の高いもんを、洗えませんよ。雨を降らせる雷様でもあるまいし」

「ミキオさんがおしっこしたところを洗うのよ」

「どこにかけたか忘れましたよ。酔っ払っていたんだし」

「とにかく起きて。起きなさい」

「とにかくあれはね、犬猫のおしっこ除けですよ。マーキングっていうでしょう? 人間の匂いがしたら、動物は寄って来ませんからね。それに、ぼくは最近おしっこの出も悪いんだから」

 向かいの店の二階では漫才みたいな喧嘩が続く。それでも二人は仲がよく、月末はいつも6軒向こうの焼き鳥屋『トリ串』で、仲良くビールを呑んでいる。店と店とが近いので、この辺りの住人は互いの家庭事情をよく知っている。

 ケサちゃんに尻を叩かれたミキオさんが電柱を掃除しに下りてくる前に、圭吾は自宅へ逃げ込んだ。入口のドアに下がったカウベルが、カラカラカランと鳴り響き、

「お兄ちゃーん? 急がないと」

 奥で妹の声がした。味噌汁の匂いが立ちこめて、朝食の準備ができたと告げている。

「おう」

 答えると、圭吾は客用の洗髪台で口をすすいだ。髪を拭いていたタオルをバスケットに放り込み、客用ドレッサーに自分を映して、客用のスタイル剤で髪を整える。細身だが引き締まった体躯。整った顔立ちにやや吊り目の自分と、鏡の中で視線を交わす。

 奥に下がった暖簾(のれん)をくぐると、そこが休憩室兼居間になる。

 彼が暮らすのは、『キングとクイーン』という名の理髪店兼美容室だ。カウンター奥に二台のドレッサーが並ぶ店内は商店街同様に昭和レトロで、内装にも設備にも古き良き時代の気配が残る。経営しているのは母親だが、元々は他界した義父が営む『バーバーキング』という理髪店だった。

 圭吾の母は2度結婚しているが、二度とも夫に先立たれている。実の父親は消防士で、火災現場で殉職した。その後、母は理髪店を営む義父と再婚したのだが、義父と恋に落ちた理由は、笑顔が圭吾の父親そっくりだったからだという。彼には娘が一人いて、それが義妹の恵利である。

 幸せな日々は10数年続いたが、圭吾の大学受験を前にして、新しい父親もまた病に倒れた。

 義父は先天性の血友病を患っていて、長年にわたる補充療法からインヒビターを生じて病死したのだ。血友病とは、出血を止めるために必要な血液凝固因子が不足もしくは欠乏して出血が止まりにくくなる病であり、その治療で投与される製剤に対して発生する抗体を、血友病のインヒビター(阻害剤・阻害物質)というらしい。

「お兄ちゃん、早く食べちゃわないと。今日はマラソンの応援でしょう?」

 ダボダボの白いTシャツ、長い萌え袖を腕まくりして、恵利が言う。肩まで掛かる栗色の髪をひとつにまとめ、エプロンと同じ色のハンカチで縛っている。色白の肌に黒目がちな瞳。華奢(きゃしゃ)で清楚な印象から商店街小町と呼ばれる妹だが、実はけっこう口うるさい。卓袱台(ちゃぶだい)には味噌汁と卵焼き、アジの塩焼きと納豆が並んで、恵利がよそったごはんが手前に置かれた。

 母は再婚で暮らし始めたこの街が気に入って、亡き夫の理髪店を引き継いだ。下町人情商店街にいたからこそ、死別の辛さも、生きていくことも、耐えていけると胸を張る。今では恵利が美容師の資格を取って店を手伝うようになったので、圭吾としても一安心だ。

 商店街の店舗はどれも、間口が狭く奥行きのあるウナギの寝床のような形状をしている。キングとクイーンの1階部分は、店舗とわずか3畳の居間と水廻りだけだ。2階は3室。圭吾と恵利の部屋も2階にあって、並びの仏間で母親が寝起きする。裏の公園に面してわずかに突き出た物干し場が家で唯一のリゾートスペースで、公園に桜が咲く頃は、二畳ほどの物干し場で団子を食べながら花見をすることもある。

 二人目の父が死んだとき、圭吾は進学を諦めて消防士になる道を選んだ。この家の惣領としての責任を感じて思ったのは、亡き実父の遺志を継ぐことだったのだ。

「あんた、またケサちゃんに余計なことを言ったわね? ミキオさん、ただでさえ肩身が狭いんだから、立ちションくらい自由にやらせてあげればいいのに」

 仏壇に供える仏飯と水をお盆に載せて、立ち上がりながら母親は言う。

「そう言うけどさ、ミキオさんがうちの電柱で立ちションしてたら怒るだろう」

「べつに怒らないわよ。2階から水をかけるだけ」

 しれしれと言い捨てて仏間へ向かう母を見送って、恵利が漬け物の鉢を出す。

「表が静かになったから、ミキオさん、外で電柱を洗わされてるよ」

 顎をしゃくって、首を 竦(すく)めるので、

「んじゃ、俺は先に食うな?」と言うと、

「どうぞ召し上がれ」

 恵利はお茶を淹れ始めた。

 店の開店は午前9時だが、圭吾が早出の日は、夜明け前にもかかわらず一緒に朝食をとることになっている。救助隊ではなく救急隊に属する救命士が危険な現場に赴くことは稀なのだが、母親は出勤前の儀式として、家族で朝食をとることに拘わり続ける。たまたま圭吾の父親が朝食抜きで出勤し、その日に事故に遭ったからだ。

「ケサちゃんは、公衆道徳を乱す人が夫だなんて我慢できないのよ。A型だから」

「別に公衆の面前じゃない。夜中にこっそりやってるだけじゃん」

「それをお兄ちゃんに指摘されたのが問題なんだな。A型は 几帳面だから、きちんとけじめをアピールしないと」

「そんなもんかね」

 圭吾はキュウリの浅漬けに箸を伸ばすと、ごはんをかき込み、パリパリ噛んだ。近所の漬け物店の浅漬けは、食材をざっと干してから漬けるので、味も歯ごたえも絶品だ。

「礼儀と建前至上主義だから、周囲の顔色が大事なの。その実、独りでのときは自由人が多いのよ? ところが、ミキオさんはB型だから……」

「はいはい」

 納豆をかき混ぜながら、圭吾は気のない返事をした。

 父親を血液の病気で亡くしたせいか、恵利は血液型の話題を好む。血液型占いにも凝っていて、蓄積した知識を披露したくて仕方がないのだ。

「……A型めんどくさって思ってる。B型はオレ様至上主義だから」

 淹れた煎茶を卓袱台に置き、恵利はキラキラする目でそう言った。

「なのにケサちゃんには頭が上がらないんだもの。あれはミキオさんの、ささやかな反抗だと思うなあ。B型ってさ、偏執的でプライド高そうに見えるけど、心臓、ガラスでできてるのよね。ナイーブで、必要以上に傷つきやすいのよ」

「じゃ、ケサちゃんは、ミキオさんをどう思っているんだよ」

「自分勝手でわがままで、めっさ手のかかる年下の甘えん坊」

「あの二人、なんで結婚したのかなあ……」

 首をひねりながら、ごはんを味噌汁で流し込む。今の圭吾には向かいの夫婦のプロファイルよりも、遅刻しないことのほうが重要だ。

「あー、今日は話題に乗ってこない。お兄ちゃんは大雑把なO型だから、自分のテンションが低い時には、まわりのことなんか関係ないんでしょ」

「はいはい、ていうか、おかわり。ごはん半分な、食い過ぎると動けないから」

 居間の古い柱時計は、間もなく午前4時半になる。

 ここがバブルの乱開発を生き延びた理由のひとつは交通の便の悪さで、最寄りの駅までバスを使っても15分以上かかる。こんな時間にバスは走っていないから、圭吾は駅まで自転車で行く。そうこうするうち母親が戻って、恵利の隣で食卓に着いた。二人が食事を始める頃には、圭吾は食事を終えている。

「ケサちゃんは、若いミキオさんのことが心配なんじゃないのかなあ。ハッキリそう言えばいいのにね。A型は身内に対して口が悪いでしょ? だからせめてもの反抗よ。B型の、意固地な反抗」

「反抗で立ちションねえ。いじましいというか、なんというか」

「もう、あんたたち、それはごはんの時にする話題?」

 母親が卵焼きを箸でブスリと刺したので、兄妹は首を竦めて会話を止めた。さすがにやばい時間だと、圭吾はお茶を一気に飲み干す。

「ごっそさん。でかけるわ」

「行ってらっしゃい」

 2人の声を背中に聞いて、支度するために階段を上った。暗くて狭い階段は、一部に下がり壁があるが、圭吾はそこで自然に腰を屈める。何度も頭をぶつけたことで、体が覚えた仕草だった。

 初めてこの家にやって来たとき、新しい父親は圭吾の前で腰を落とすと、見上げるようにして頭を撫でた。横には小さな恵利が佇んでいて、片手をスカートの裾に置き、片手で父親の袖を掴んでいた。義父は笑うと目が細くなる人で、病気ではあったが病人のようには見えず、快活で、どこまでも明るい人だった。本当の父も、やはりこんなふうに笑ったろうかと圭吾は思い、いつしか二人の父親は、同じイメージになっていった。

 廊下の片側に並ぶ部屋の一つで着替えを済ませ、仏間を覗く。2人の父と、恵利の祖父母、出産時出血で死亡した恵利の母。居並ぶ写真に手をあげて、「行ってきます」と、圭吾は言った。

 そのままどん詰まりの物干し場へ出てスニーカーを履き、手摺りから身を乗り出すと、回転するようにして公園の敷地へ着地する。脇道のない商店街を何百メートルも疾走するより、物干し場から公園へ下りた方が通勤路に近いからだった。

 夜明けの公園にはもう人がいて、公衆トイレの掃除をしていた。持ち回りで清掃作業に当たるのもやはり商店街の人たちで、今日は豆腐屋のおばさんと、強面の虎吉会長が作業をしている。

「おう、ケイ。今朝も早ぇじゃねえか。これからか?」

 会長が便器ブラシを振り上げたので、汁が飛ぶんじゃないかと心配になる。

「そ。マラソンイベントの助っ人でね」

「おやまあ、それは大変だこと。暑くなるから、気をつけてねえ」

「さんきゅ、そんじゃまた」

 走りながら交わす短い挨拶も、いつもながらだ。

 公園の自転車置き場に駐輪している愛車に跨がり、圭吾は駅へこぎ出した。


  * * *


次回、いよいよ東京五輪プレマラソンが開幕。公開は10月31日です。
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東京五輪プレマラソンで、自爆テロが発生。現場では新開発の人工血液が輸血に使われ、消防士の向井圭吾も多くの人命を救った。しかし同日、人工血液が開発された病院で圭吾の妹が急死する。医師らの説明に納得いかず死の真相を追い始めた矢先、輸血された患者たちも圭吾の前で次々と変死していく——。胸に迫る、慟哭必至の医療ミステリ。