「ふつうの幸せ」が難しい時代です。憧れの仕事、理想の結婚、豊かな老後……を手に入れることができるのはごく少数。しかし、そこで「人並みになれない自分」に焦り苦しむことなく、満たされて生きるにはどうすればいいのか――?
『人生を半分あきらめて生きる』には、人生を上手にあきらめる知恵、そこから生きるエネルギーを取り戻す工夫が詰まっています。
臨床経験豊富な心理カウンセラーの言葉を読み、少しでも気持ちを楽にしてください。

驚くほど多い「無縁仏」

「無縁社会」「孤独死」という言葉がテレビや雑誌などで取り上げられはじめました。その実情が報道されるにしたがって、多くの人が不安や焦りを感じ始めています。

 今、30歳以下の男性の約3人に一人は、人生1回も結婚しない「生涯独身」になるはずだと予測されていることを先に紹介しました。すでに単身世帯が、日本では最多の世帯形態です。これからますます増えていくでしょう。

 つまり、社会の「無縁化」「孤独化」はますます進んでいきます。

 今はまだ、「孤独死は避けたいね」「ひとりで死ぬのはいやだよね。あまりにも、さみしいよね」という声が多く、「だから、結婚はしたいよね」という声が多数派ですが、あと20年もすれば、「孤独死」=「ひとりでひっそり死ぬこと」が、「ごくふつうの死のあり方」として、社会的に受け入れられていくでしょう。

 それにしても驚いたのは、東大病院で死を迎えた人のうち、3割以上の人が葬式をしてもらえず、そのまま火葬場へ直行するという事実を知ったときです。

「東大病院に来院する方」と言えば、医師の紹介状を持って受診する人が大半で、それなりの社会的階層の人が多いはずです。にもかかわらず、東大病院で死を迎える人の3割が、経済的な問題からか、葬式をあげてもらえないらしいのです。

 NHKスペシャルで2年くらい前に「孤独死」や「無縁仏」の問題を特集した際、「私も無縁仏として火葬場送りになるかもしれない」と多くの人が不安を抱きました。

 この頃から、自分が突然死んだときに備えて、自分の遺骨をどうするか、遺品をどう整理してもらうか、生前契約する人が増えて話題になり、この題材を元に書かれた小説が映画化もされました。

 私も、「東大病院で亡くなる人の3割が無縁仏」という、この記事を目にしたとき、ふと「私が死んでも、お葬式はあげてもらえないかもしれないな」という考えが、頭をよぎりました。

 そして、なぜか、「それでもいい」と思えたのです。

 考えてみれば、たとえ葬式を開いてもらえても、ほんの数時間、私のことを思い出してもらえるだけです。そして、葬式に来る人の中には、単に仕事のつきあいで葬式に来る人や、私のことを恨んだり妬ねたんだりしている人もいることでしょう。そんな方にまで葬式に来られると、その方たちの濁った想念で、私の魂が、肉体から離れ、純化されたものとしてこの世から旅立っていくのを妨げられてしまうように思います。

 お墓はどうでしょうか。

 イスラム教圏では、どんなに社会的な地位が高い人でも、社会的地位が低い人でも、関係なく、ただ、墓石をぽつんと一つ置くだけ。日本のようなお墓はつくらないそうです。

 私は、それも悪くないな、と思うようになりました。

 私たちは、「見えない世界」から、ほんの数十年間、この「見える世界」にやってきて、そのうちいずれ、また、魂のふるさとである「見えない世界」へと還かえっていく存在です。

「この世=見える世界」は、しょせん「仮の宿」なのです。

「自分はひとりであの世に行くのだ」と、「死の瞬間」をひとりしみじみと味わいながら迎えた方が、この世への未練を残すことなく、気持ちよく、あの世に行くことができるかもしれません。

 盛大な葬式よりも、豪華なお墓よりも、私が望むのは、この本を含め、私の書籍や論文のすべてを電子化して、永遠にこの世に残してもらうことです。私は、本を書くとき、ふと、何か、石を彫るようにして、魂を文字に刻んでいるような感覚に襲われることがあります。私の魂は、少なくとも、お墓にあるよりもはるかに深く、私の書いた書物の中に、文字として宿っているはずです。

 私の書いたすべての書籍や論文が電子化されてオンライン上に残れば、日本人の過半が一度に命を失うような、前例のない災害が(そのようなものはありえないかもしれませんが)あったときも、私の魂は、文字として残り続けます。もしかすると、300年後か500年後に、何かの資料を調べている青年が私の本を目にするかもしれません(たとえば「あきらめ」について調べていて、この本をオンラインで手にとってくれるかもしれません)。

 私は、中学時代、キャンディーズのかなり熱心なファンでした。メンバーの一人、スーちゃん(田中好子さん)のお葬式にも行きました(あのお葬式で、青い紙テープを投げていた一人が、私です)。スーちゃんの魂は、彼女の出演した作品に、キャンディーズのCDに、そして、あの時天空に投げられた青い紙テープに宿っていました。

 何かの作品を作っている人なら、自分の「作品」にこそ(ある意味で現実の自分以上に)、魂が刻まれている、というこの感覚はわかってもらえるはずです。だからこそ、作品づくりなどという、こんなにも苦しい作業を続けることができるのでしょう。

 現実の私のことなど、知っている人が誰もいないときが、あと100年もせずに訪れるでしょう。そんな、100年後のいつか、ある若者が、オンラインでたまたま私の本を見つけて「こんな人がこの時代にいたのだ」と思ってくれる。そんな場面を私はひそかに夢想します。
(『第八章「自分は、孤独死するかもしれない」と、あきらめる』より)

*続きは、書籍『人生を半分あきらめて生きる』をご覧ください。

 

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「ふつうの幸せ」が難しい時代だ。憧れの仕事、理想の結婚、豊かな老後……そんな選択ができる人はごく少数。日本は、個人の努力とは無関係に、就職できない人、結婚できない人、孤独のまま死んでいく人がますます増える社会になる。そこでは「人並みになれない自分」に焦り苦しむより、人生を半分あきらめながら生きることが、心の奥深く満たされて生きる第一歩となる。自分ではどうにもならない現実に抗わず、今できることに集中する。前に向かうエネルギーはそこから湧いてくる―。臨床経験豊富な心理カウンセラーによる逆説的人生論。