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臨終医のないしょ話

2017.09.03 公開 ツイート

第7回

「三途の川を渡るまで…」
天涯孤独な老人がいちばん大切にしていたもの 志賀貢 / 医学博士

誰もが避けられない”臨終“の間近、人は実に不可思議な現象に遭遇する――これまで数千人を看取った医師が、そんな臨終にまつわる奇譚と、50年の臨床経験から導き出した幸せに逝く方法を赤裸々に明かしたエッセイ――『臨終医のないしょ話』(志賀貢著)

本日は、肺炎で入院してきた天涯孤独なKさんが、最期まで他人に預けることをかたくなに固辞したとある「物」に関するお話しです。

* * *
 

 患者のKさんは、ずっと一人暮らしでした。奥さんに先立たれてから、75歳になるまで十数年間一人暮らしが続いており、食事も自分で作って食べられるほど元気でした。


 健康保険は、今年から後期高齢者の保険に切り替わりましたが、今までこれといった持病もなく、朝はジョギング、午後からはテニスクラブ、夜は仲間とカラオケ、と彼にとっては充実した人生でした。

 ただ75歳の声を聞いてから、ときどき風邪を引くようになり、近所のかかりつけの先生から、風邪薬を処方してもらって飲んでいました。

 このたびは、その先生のところで咳き込みが激しいため、レントゲンを撮ってみて肺炎が発見され、それでうちの診療所へ紹介されて入院してきました。

 普段スポーツをしているだけあって、入院後も非常に足腰が丈夫で他の患者とは比べものにならないくらい、身の回りすべてを自分で整理することができました。

 どこの病院でもそうですが、新しい患者さんが入院してくると、一応身の回りのものを検査させていただいております。問診だけではなかなか持ち物が信用できないことがあるからです。

 たとえば、タバコ、ライター、小さな小瓶のウイスキー、あるいはハサミ、ナイフ、爪切りなど、いろいろな危険なものが荷物の中に隠されていることが少なくないのです。

 発見された場合には、看護主任や師長が、預からなければならない理由を懇切丁寧に説明し、それらのものを取り上げることにしています。

 多くの患者さんは、ハサミやナイフの刃物に関しては納得して抵抗しませんが、タバコやライターになると、相当ごねる人もいます。

 かといってその我儘を通すと、トイレに隠れてタバコを吸ったり、想像もつかないような場所でライターに火をつけることがあるので、どうしてもナースステーションで預からざるを得ません。

 Kさんの場合は、体だけではなくて頭の働きもとても75歳とは思えないくらい、しっかりしていて、しかも記憶力も抜群です。

 しかし入院した当日、困ったことが起きました。

「泥棒!」

 彼はボストンバッグの中から看護師が、布に包まれた15センチ四方くらいの固まりを、調べようとして取り出そうとした瞬間、大声で怒鳴りました。

「人の金に手をつけるな!」

 その声に4人部屋の他の患者たちは飛び上がるほど驚いたようでした。包みの中身は札束でした。6個ほど入っていました。つまり彼は600万円ほどの大金を持って入院してきたわけです。

 それだけではありません、下着を脱がせて病衣に着替えさせようとすると、お腹に大きな胴巻きを巻いています。それにもう一人の検査に立ち会っている看護師が手を触れようとすると、

「泥棒野郎!」

 と、さらに激しい声が飛んできました。

この金は「三途の川の渡り賃だ!」と老人は騒いだ

 病室の騒動に、ナースステーションにいた長坂師長が飛び込んできました。

「あらぁ、こんなにお金持ってるの?」

 師長は目を丸くして驚きました。

「こんな大金、枕元に置いたら夜も寝られなくなるわよ。すべて病院で預かります。ちゃんと院長の判を押した預かり証を出しますから、ベッドのそばに置くよりははるかに安全ですからね。そんな大きな声を出さないで。誰も患者さんのお金を泥棒なんかしませんから。気を落ち着けて。わかってください」

 師長が優しく諭すように、顔を覗き込みましたが興奮冷めやらず、老人は首を縦に振りません。

 そしてもう一度大声で叫びました。

「わしは誰も信用せん! この金は死ぬまで離さん!」

「そう、私たちではわかってくれないのね。今、事務長さん呼びます。うちの事務長は長い間、地方銀行の支店長をやっていた人で、数字にも明るく、真面目な人なんです。彼の説明をよく聞いてみてくれませんか。きっと納得できると思いますよ」

 師長の「元銀行マンの事務長」という言葉に、多少心が和らいだらしく、彼の口から過激な言葉は消えました。

 すぐナースステーションからの連絡で、八海事務長が飛んできました。そして、お金はベッド際に置くことは危険なので、病院が預からせていただきたい、それでも不安であれば通帳にお金を入れて、銀行に預けたほうがいいので、その手続きを取りましょう、と静かな声で説得をしました。

 それから、看護師たちが席を外した後も、事務長はベッド際にしゃがみ込んでお金の保管に関して詳しく説明をしていました。

 その結果、大変なことがわかりました。

 お金は、病院にボストンバッグや胴巻きに入れて運んできただけではありません。主が入院して、今は空き家状態の家の押し入れの中に、さらに大金が隠してあるというのです。

 そうなると放置はできません。これだけ世の中物騒でオチオチ一軒家で一人暮らしなどしていられない時代です。かといってマンションだって、ベランダから老人の金を狙って泥棒が忍び込んできたというニュースがときどき報じられます。

 空き家状態になった老人の住居に大金が眠っているなどと知ったら、泥棒にとってはまさに「猫に鰹節」、これ以上の願ってもない話はありません。

 事務長の報告を聞いて、私や師長はどうしたものかとため息をつきました。

 区役所の高齢支援センターとも連絡を取りましたが、老人には身寄りがなく、まさに天涯孤独な一人暮らしであることが判明しました。

 支援課のほうでは、後見人を立てるか、あるいは弁護士を入れて財産の管理をしてもらうか、いずれにしても至急手を打つ必要がある、と同じ考えのようでした。

 しかし、その手続きをいったい誰がするのか、という問題が発生しました。恐らく、老人はお金を他所よそに動かすことに抵抗するに違いないのです。

 その日は、お金を枕元から取り上げることもできず、厄介なことになったが看護師たちに十分気をつけるように指示をしました。

 そして翌日、私と事務長と師長の三人で彼を応接室に呼び、説得を試みました。

「肺炎のほうは発見が早かったから、大丈夫ですよ。薄い影が右の肺にちょっと残っていますけれど、昨日から打ち始めた抗生剤がかなり効くようで、熱も平常に戻りました。いくらか入院前よりも楽になったんじゃないですか?」

 私がそう言って身を乗り出すようにして尋ねると、彼は大きく頷きました。

「虎の子はタンス預金が一番」ではない

 この様子なら、身の回りのことも話ができるかもしれない、と判断して私は続けました。

「何か昔、お金のことで人に騙されたことでもあるんですか。そうでなければ、大金を身の回りに置くなんてしませんものね。正直におっしゃってくれれば、お金の保全には全面協力をしますよ。

 ここは病院ですから、うちのスタッフがあなたのお金に手をつけるようなことは、間違ってもありません。だから全幅の信頼を置いてください。もしもお金を預かって盗まれたら、私が全額補償します」

 その言葉に老人はもう一度大きく頷き、事務長の顔を見て言いました。

「事務長さん、あんたは銀行の支店長だったそうですね。どうなんですか。お金を銀行に入れておいて安全なんですか」

 その質問に、銀行勤めが長かった事務長は、さすがにムッとした顔で彼を直視して言いました。

「銀行を信用しないでお金をどこへ置くんですか。今の日本で一番安全なのは銀行じゃないでしょうか」

「そうですかね。じゃあ一つ聞きますけど、日本の銀行はつぶれたら1000万円までしか保証しませんよね。後の金は国が没収ですか? 私はそれは嫌だ。預けた金は全部返してもらいたい。そんな法律がある間は、私は金はどこにも預けません」

 もう処置なしです。

 我々三人は彼の顔を見るのを諦めて、下を向いてしまいました。

 どれくらい時間が経ったでしょうか。老人は声を和らげて、ぽつんと言いました。

「お墓が欲しいよ」

 その言葉に三人が顔を見合わせると、

「妻が眠っている上高地の近くにでっかいお墓を作ってやりたいよ。そして一緒に入りたいよ。後の金はくれてやる。銀行でも弁護士でも後見人でもどこでも欲しい人が持っていけばいい」

「お墓?」

 師長が席を立って老人の横に座りました。そして彼の手を取って、

「お墓なら私が作ってあげる。上高地がいいの? じゃあ元気になったらお金を持って行きましょう。1000万円のお金全部かけて100年も200年も残るようなお墓を作りましょう。そこで奥さんと永遠に幸せに眠りましょう。ね。だからそれまでお金は病院に預けてください」

 やや沈黙が応接間を支配しました。やがて老人はにっこりと笑って、師長の手を握り返しました。

「あんたはいい人だよ。死んだ妻にそっくりだ。たとえ噓だとわかっていても私はあんたの言葉を信じたくなった。金は預ける。せめてアルプスとは言わないけど、三途の川を渡るまであんたが預かってくれよ」

 そう言って笑顔になった老人の頬に、涙が一筋光っていました。

 恐らく長い間連れ添った奥さんとの思い出が、走馬灯のように頭の中をかけめぐり、熱いものがこみ上げてきたのだと思われます。

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誰もが避けられない<臨終>の間際、人は摩訶不可思議な現象に遭遇する――これまで数千人を看取った医師が、そんな数々の臨終にまつわる奇譚と、50年の臨床経験から導いた幸せに逝く方法を赤裸々に明かします。

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志賀貢 / 医学博士

北海道生まれ。医学博士、作家。昭和大学医学部大学院博士課程修了。長らく同大学評議員、理事、監事などを歴任し、大学経営、教育に精通している。内科医として約55年にわたり診療を続け、僻地の病院経営に15年従事。また介護施設の運営にも携わり、医療制度に関して造詣が深い。その傍ら執筆活動を行い、数百冊の作品を上梓している。近著には、『臨終医のないしょ話』『孤独は男の勲章だ』『臨終の七不思議』(いずれも幻冬舎)等がある。

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