役に立つ、のさらに先にあるものへ

イラスト:たかしまてつを


 まがりなりにも書評家を名乗っている自分の、ありったけのプライドを賭けて言おう。

 本書は現在日本で出版されている本の中で、最も優しい本だ。

 もちろん英語を学びたい人のために作られているので勉強になる本であることは間違いない。英文の構造を極限までシンプルに解説していく手法には、まさに目からウロコ。和訳ではなくイメージに置き換えながら読むための様々なヒントは、英語を今までよりもずっと身近で、親しみやすいものと感じさせてくれる。

 こういった実際に役に立つという面は、英語に多少の興味を持つ人であれば、パラパラと拾い読みするだけですぐに理解できるはずだ。今まで読んできた、読まされてきた教科書や参考書とはまったく違うアプローチによって書かれていると気が付くだろう。

 しかし私が驚き、感動すら覚えるのは、役に立つことの多さも引っくるめた、この本の“優しさ”なのだ。
 

大変なことをしなければ、いい本は作れないという教え

 ここで、この原稿を書いている私の立場を明らかにしたい。前述のように私は現在、書評などの文章を書くことを業としているが、以前は出版社で書籍の編集をしていた。本書の版元・幻冬舎で、本書の元となっている『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本』と、それに連なる物語シリーズ全7巻の編集を担当していたのだ。

 プロジェクトが始動した2000年頃はまだ入社して1、2年の駆け出しということもあって、あくまで先輩編集者にくっ付いているような形に過ぎなかったけれど、このシリーズが生み出され、累計220万部を超えるベストセラーとなっていく過程を、制作スタッフの一員として間近で見ることができた。

 思い返せば、あの頃から既に「ビッグ・ファット・キャット」は優しかった。

 何度も英語に挫折してきた人に向けて、いつまでも英語に対する苦手意識を持ち続けている人に対して、英語は「世界一簡単な」言葉であり、ごく限られたルールを覚えた上で英文を読み続けていけば必ずできるようになると、励ますように繰り返していた。読者が英語なんてつまらないと退屈しないよう、小さなイラストや例文一つにもありったけの遊び心とサービス精神を盛り込んでいた。そこにあったのは本を手に取る人への誠実さと“優しさ”だった。

 一方で、信用に足る“優しさ”の多くが厳しさによって支えられているように、「ビッグ・ファット・キャット」シリーズ制作の現場は、私が編集者生活で見た中でも群を抜いて厳しいものだった。

 作家・向山貴彦さんをはじめとするスタジオ・エトセトラのメンバー、イラストレーターのたかしまてつをさんは、読者にとって本当に有用な本を目指して絶えず腐心していた。書き直しの作業は当たり前で、編集者がOKを出し入稿まで進んでいたものが、まったくの白紙状態に戻されることすらあった。ここで昔の苦労話を披露しても仕方がないので詳細は省くけれど、若い編集者であった私はその時の経験を通して教えられたのだ。これほど大変な思いをしなければ、いい本は作れないのだということを。読者にとって優しい本を生み出すのは、なんと困難であろうかと。
 

「改訂版」ではなくまったく新しい本だった!

『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な本』が生まれ変わるという話は、退社するしばらく前から耳にしていた。文芸誌の編集に掛り切りになっていた当時の私はプロジェクトに参加することこそできなかったが、その「改訂版」の完成を心待ちにしていた。スタジオ・エトセトラ界隈では、また過酷な日々が始まっているのか……と心配したけれど、きっと彼らならとてつもなくすごい本を作るはずだという確信を抱いてもいた。

 退社から4年が経とうかという今年の春、ついに新しい「ビッグ・ファット・キャット」に会うことができた。

 タイトルには「大百科事典」とある。前作に比べて1.5倍のボリュームだけれど、「大百科事典」と銘打つにはずいぶんとコンパクトだ。そのギャップに今回の企みの大きさを感じて思わず笑みが浮かぶ。250ページ程のこの一冊で英語の世界まるごとを表現しようということか。そして中身を読み始めて驚く。これは「改訂版」なんかじゃなくて、新しい本ではないか!

すべてのページから溢れ出す“優しさ”

 確かに前作の方法論を踏襲しているのだけれども、英語の仕組みをより大胆に、より分かりやすく解説していく様はやはり感嘆に値する。もちろん私たちが学校の勉強で苦手としてきた文法用語はただの一度も使われていない。

 読みやすさや楽しさについても一から考え直されたようで、例文や挿絵はすべて書き下ろされている。頻出する動詞をイメージとして掴むための「矢印辞典」も付いているし、本書の次に読むべきブックガイドも収録。「大百科事典」の名に違わぬ全方位的充実振りだ。しかもすべてのコーナーから、すべての文章とイラストから、少しでもいい本であろうとする“優しさ”が溢れ出ていた。

 極めつけは副読本としては本格的すぎる読み物「Big Fat Cat AND THE LOST PROMISE」。パイ職人エドの幼い日の思い出と運命的な恋を巡るこの物語は、哀愁と希望、切なさと躍動感が絡み合って、なんとも言えない読み味を醸し出している。その、なんとも言えなさをあえて言葉にすると、やっぱり“優しさ”ということになる。

 世の中には、この日本には、面白くて役に立つことを目指して作られた本はたくさんあるだろう。しかしここまでそれが徹底され、結果として作り手の“優しさ”が滲み出ているような本は唯の一つもないと、私は思う。

 十数年の時を経て再び、いい本とはこういうものだと教わったような気分だ。

 きっと今回も、制作現場は厳しかったのだろうけれども……。

 

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ATUSHI HINO(ひの・あつし)

76年宮城県生まれ。大学在学中より幻冬舎で書籍編集に携わる。05年に文芸カルチャー雑誌「パピルス」を創刊。13年に退社後、書評家・ブックライターとして活動。

関連書籍

向山貴彦『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の大百科事典』
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