電通の過労死自殺をきっかけに、日本の長時間労働がいよいよ問題になっています。とはいえ、働くことこそ生きること、なんでもいいから仕事を探せという風潮は根強く、息苦しさを感じ続けている人も多いのではないでしょうか。本書『仕事なんか生きがいにするな ~生きる意味を再び考える』は、仕事中心の人生から脱し、新たな生きがいを見つけるヒントが詰まった1冊です。

「意味」と「意義」の取り違え

 本書の冒頭で、私は「人間は意味がなければ生きていけない生き物である」ということを述べました。しかし、この「意味」とはいったい何もので、それは果たしてどのようにして感じられるものなのかということを、ここで掘り下げて考えてみたいと思います。

 まずは、この「意味」というものを明確にするために、似通った使われ方をすることの多い「意義」との違いについて考えてみましょう。

「意味」と「意義」という概念の違いについては、論理学や現象学などの分野でもいろいろと議論されてきているテーマの一つではありますが、しかしそれらは専門的に過ぎ、「生きる意味」という問題を考える上ではあまり参考になりません。ここでは、普段私たちが用いている感覚をもとにしながらも、「意義」と「意味」を異なるものとして定義付けてみようと思うのです。

現代に生きる私たちは、何かをするに際して、つい、それが「やる価値があるかどうか」を考えてしまう傾向があります。このような、「価値」があるならばやる、なければやらないという考え方に、「意義」という言葉は密接に関わっています。つまり、私たちが「有意義」と言う時には、それは何らかの「価値」を生む行為だと考えているわけです。

 また、「時間を有意義に使いましょう」「有意義な夏休みを過ごしましょう」といったスローガンは、私たちが子供時代からイヤというほど聞かされてきたおなじみのものです。これは一見、もっともな教育的スローガンのように思われますが、実のところかなり私たちを窮屈にしているものでもあります。

 例えば、うつ状態に陥った人たちが療養せざるを得なくなってまず直面するのが、この「有意義」な過ごし方ができなくなってしまった苦悩と自責です。働くとか学校に行くといった「有意義」なことができない自分を、「価値のない存在」として責めてしまうのです。

 問題なく動けて社会適応できている時には気付き難いことですが、私たち現代人は「いつでも有意義に過ごすべきだ」と思い込んでいる、一種の「有意義病」にかかっているようなところがあります。特に最近では、SNS等に写真付きで投稿できるような「何かをする」ことが重視される風潮も高まっていて、ひたすらゴロゴロして過ごした場合など、「何もしなかった」ことになって、後ろめたい気持ちにさいなまれたりします。何の「価値」も生み出さなかったのだから、ちっとも「有意義」でなかったことになってしまうわけです。

 また現代では特に、「価値」というものが「お金になる」「知識が増える」「スキルが身につく」「次の仕事への英気を養う」等々、何かの役に立つことに極端に傾斜してしまっているので、「意義」という言葉もそういう類の「価値」を生むことにつながるものを指すニュアンスになっているのです。

 しかし、一方の「意味」というものは、「意義」のような「価値」の有無を必ずしも問うものではありません。しかも、他人にそれがどう思われるかに関係なく、本人さえそこに「意味」を感じられたのなら「意味がある」ということになる。つまり、ひたすら主観的で感覚的な満足によって決まるのが「意味」なのです。

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