前回は、話題作『騎士団長殺し』(村上春樹著、新潮社刊)に何度も出てくるオペラ《ばらの騎士》の作曲家シュトラウスについての話をお送りしました。今回は、指揮者ショルティに関する逸話です。『騎士団長殺し』の主人公「私」が何度も聞くのは、ゲオルク・ショルティ指揮、ウィーン・フィルハーモニー演奏の《ばらの騎士》。そのドンピシャのLPは、タワーレコードのサイトで紹介されていますが、指揮者ショルティはどんな人物だったのでしょうか。『現代の名演奏家』(中川右介著)のエピソードの中からご紹介します。

 

<Episode44 かつてのライバルは最晩年の友>

ゲオルク・ショルティ Georg Solti  1912 - 1997 指揮者

ショルティ指揮、シカゴ交響楽団
モーツァルト:交響曲第38番、第38番
DECCA / UCCD-3746

 

 ゲオルク・ショルティのレコードでの偉業としては、デッカで録音したワーグナーの《ニーベルングの指環》全曲録音が真っ先に挙げられる。一九五八年から六五年までの足掛け八年にわたる仕事だった。このレコーディングによって彼が得たものは多いが、失ったものもある。

 ショルティの《指環》はウィーン・フィルハーモニーが演奏した。このオーケストラは毎晩、国立歌劇場のピットに入りオペラを演奏し、昼間や夏休みなどオペラ公演のない自由時間に、自主組織のウィーン・フィルハーモニーとして活動する。レコーディングは余暇での仕事だ。

 ショルティの《指環》が録音されていた時期のウィーン国立歌劇場の藝術監督はカラヤンである。カラヤンは一九〇八年生まれ、ショルティは一二年生まれだから、ほぼ同世代と言っていい。しかし、この時期のカラヤンはウィーンだけでなく、ベルリン・フィルハーモニーとザルツブルク音楽祭の監督でもあり、まさに、「帝王」だった。ショルティの楽壇でのポジションと知名度はカラヤンよりかなり下だった。

 カラヤンがウィーン国立歌劇場で最初に取り組んだ大きなプロジェクトが《指環》で、五七年から、指揮するだけでなく演出まで手がけて上演していた。カラヤンはデッカとも契約し、同時期にウィーン・フィルハーモニーと《オテロ》《アイーダ》などのオペラも録音していたから、契約上はカラヤンが《指環》をデッカで録音するのは可能だった。それなのに、デッカのプロデューサー、ジョン・カルショーは《指環》や《トリスタンとイゾルデ》の指揮にショルティを起用した。

 かくしてウィーンの演奏家たちは同じ曲を、昼間はショルティと録音し、夜はカラヤンと歌劇場で演奏することになった。当然、カラヤンとしては穏やかではない。そのためかどうかは分からない。ショルティは一九五五年と五六年のザルツブルク音楽祭では《魔笛》を指揮したが、これはフルトヴェングラーが実権を握っていた時代に決められたものだった。カラヤンが音楽祭の監督になった五七年以降、ショルティは同音楽祭では、七八年と八一年にシカゴ交響楽団と客演したのみでオペラは指揮していない。誰の目にも、カラヤンがショルティを排除しているように見えた。

 ショルティはカラヤンのことを「ワーグナー以降最大の音楽界の黒幕とも言えるだろう」と評し、「カラヤンの私に対する態度を、私は大いなる賛辞と受け取った」と書く。ライバルとして認めてくれたという意味だ。二人がケンカをしたとか、大声で怒鳴りあったことはない。ショルティによるとカラヤンと会ったのは、六〇年代後半に、ウィーン・フィルハーモニーのツアーでベルリンへ行った際に、ベルリン・フィルハーモニーが開いたパーティの会場で、「当り障りのないおしゃべり」をした時だけだったという。

 カラヤンが本当に「黒幕」だったのかどうかは分からない。周囲の関係者が帝王の気持ちを忖度して、ショルティを音楽祭から排除していただけかもしれない。

 

 時は流れて一九八六年──ショルティはザルツブルクから二年後の、八八年のイースター音楽祭でベルリン・フィルハーモニーを指揮してくれとの依頼を受けた。ショルティは依頼してきた事務局長に「カラヤンの承諾を得ているのか」と訊いた。すると「カラヤン自身の提案である」との答えだった。しかし、同時期にシカゴ交響楽団とのツアーの予定が入っていた。ショルティが断ると、では同年夏の音楽祭はどうかという。ショルティは引き受けて、八八年夏のザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルハーモニーを指揮した。さらに翌八九年のイースター音楽祭でベルリン・フィルハーモニーのコンサートを指揮することになった。

 八九年のイースター音楽祭でカラヤンは《トスカ》と二つのコンサートを指揮し、ショルティはコンサートをひとつ受け持った。この時ショルティはさらに先の、九二年のイースター音楽祭での《影のない女》の指揮をカラヤンから直接、依頼された。カラヤンは三年後の自分にはオペラの指揮など無理だと予感していたのだろう。

 なぜ最晩年のカラヤンは、何の親交もないショルティに助けを求めたのだろう。ショルティ自身、「なぜカラヤンが急に私への態度を軟化させたのか分からない」と書いている。親交がないということは、いい感情もなければ、悪い感情もないのだ。カラヤンは自分の音楽祭を委ねるのに誰がふさわしいのかを、藝術面とビジネス面で判断し、ショルティという結論を得たのだろう。あるいは、カラヤンはこの時期、バーンスタインとも急速に親しくなっているから、死が近いのを予感し──たしかにいつ亡くなってもおかしくない年齢だった──誰からも惜しまれて死にたいと、本能的にかつてのライバルたちと和解したのかもしれない。

 

 イースターから四カ月後の七月十六日、カラヤンは急死した。

 ザルツブルク音楽祭では二十七日からカラヤンの指揮でドミンゴ主演の《仮面舞踏会》が予定され、リハーサルも始まっていた。音楽祭事務局はショルティに代役を依頼した。しかし彼はこのオペラを二十年以上指揮していないので断り、音楽祭に出演するアバドやムーティを推薦した。しかし、たとえうまくやってもカラヤンと比較される仕事は誰もやりたがらない。今度はドミンゴが自らショルティに電話をして「助けてください」と頼んだ。

 こうしてショルティは、誰も引き受けたがらない「カラヤンの代役」を引き受けた。

 ショルティがザルツブルク音楽祭でオペラを指揮するのは、実に三十三年ぶりだった。

 

 

*ゲオルク・ショルティ
ハンガリーのブダペストで一九一二年に生まれた。リスト音楽院でバルトーク、コダーイに学ぶ。三〇年、ブダペスト歌劇場の練習指揮者になるが戦争が始まる三九年にスイスへ亡命。ピアニストだったが指揮者に転向し、バイエルン、フランクフルト、ロンドン等の歌劇場で指揮し、六九年から九一年までシカゴ交響楽団音楽監督を務める。レパートリーは幅広い。オペラではワーグナーの十作品の録音が偉業。九七年に亡くなった。


*参考文献
『ショルティ自伝』木村博江訳、草思社
『ニーベルングの指環』ジョン・カルショー著、山崎浩太郎訳、学習研究社
『ヘルベルト・フォン・カラヤン』リチャード・オズボーン著、木村博江訳、白水社

 

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非凡な才能を持つ音楽家同士の交流は深く激しい。帝王カラヤンに見初められ女王の道を駆け上がった天才少女ムター(Vn)、グリモー(Pf)とアルゲリッチ(Pf)という美貌と野性味溢れる新旧異才の共鳴、反体制を貫きソ連国内で演奏できなかったロストロポーヴィチ(Vc)を復活させた小沢征爾…。彼らは何をきっかけに師弟やライバル、恋人となったか。時に対立し、それは音楽にどう影響したか。自らの才能だけを頼りに栄光を掴みながらも戦争や冷戦に翻弄される天才たちの50の邂逅の物語が、現代クラシック界の1枚の相関図として浮かび上がる。