新聞読んでますか? ネットニュースでもう十分なのでしょうか。しかし、新聞を古いメディアとして切り捨てるのはもったいない。人気時事芸人、プチ鹿島さんの『芸人式新聞の読み方』を読むと、そんな気持ちが湧き起こってきます。新聞が持つ魅力、面白さを再発見できる本書より、まず「はじめに」をお届けします。

 

『朝日』と『東スポ』の見出しが同じになってしまったあの日

 1995年3月20日の「地下鉄サリン事件」発生から20年経った2015年。

 各局で特番が続々と放送されたが、フジテレビ系『ザ・ノンフィクション』の「20年前 地下鉄サリン事件はこうして起きた」(3月15日)は異色だった。オウム事件がアニメになっていたのである。

 このシリーズは過去に何回か放送されており、取材・構成・演出はジャーナリストの青沼陽一郎氏。裁判で明らかになる教団の実態は「まるで漫画」だとして「麻原法廷漫画」にしたという。オウムを漫画で伝えるというのはたしかに発見だ。他番組の再現ドラマを見ていると、オウムを真面目に伝えているようでいて、むしろ劇的にかっこよく伝えてしまっていないか? という違和感があったからだ。

 あの集団はもっとマヌケである。マヌケだからこそ怖かった。

 当時25歳だった私の最大のショックは、「世の中が乱れると、朝日新聞と東京スポーツの見出しが同じになる」ということだった。オウムは自分の組織に「外務省」とか「大蔵省」などと省庁の名前を付けていた。まったく子どもじみていた。しかし、ひとたび重大なテロ事件を起こすと、《オウム科学技術省がサリン製造か》という見出しが朝刊紙に載ってしまった。

 それまでは「国家ごっこかよ」と苦笑していれば終わりだったものが、事件を起こしたことでマヌケなネーミングも真剣に報じられ始めたのである。あのときのザワザワした気持ちは忘れられない。

 私は新聞を読む順番として、まず朝刊紙で「前提となるベタ」を確認する。そして、スポーツ紙や夕方のタブロイド紙で徐々に「変化球」や「下世話な行間」を味わう。言ってみればスキャンダリズムの段階をアップさせていき、新聞それぞれの持つ「役割」や「価値」を楽しむわけだ。

 しかし、オウムが事件を起こしたことで、一般朝刊紙にも、たとえば「オウム科学技術省」という文字が大々的に載ってしまった。『朝日』も『読売』も『東スポ』も同じ見出しになってしまったのである。

「ああ、世の中が大変なことになっている」と思った。すべての価値が乗っ取られた感じ。もしかして戦争時のメディアとはこんな感じだったのか……と想像し、ひとり絶句していた。すべてはマヌケが始まりだから衝撃だったのである。「自称」なのに、重大なこととして伝えざるを得なかった(ちなみに、あれから20年経ち、メディアは自称「イスラム国」をどう呼ぶかで自問自答したが、あれは多分にオウム事件を思い出させた)。

 オウム事件以降、『朝日新聞』と『東スポ』が同じ見出しになることが増えた。それだけ世の中に「行間」や「遊び」がなくなっている証明だと思う。

 

川口浩探検隊とプロレスで学んだリテラシー

 私が子どもの頃は、『水曜スペシャル』の“川口浩探検隊シリーズ”をはじめ、半信半疑で見るテレビ番組が公然と放送されていた。子ども心に、「昨日テレビで捕まえていたはずの謎の類人猿バーゴンが、どうしてウチの新聞に載っていないんだろう」と疑問に思い、わざわざ図書館に全紙を調べに行ったことがある。そして、「どうやらあの番組はエンタメらしいぞ」と学んでいったのだ。

 大好きなプロレスも、「何が本当か」を見極めるのが実に難しいジャンルだった。

 会場の座る席によって見える試合の風景がまったく違うように、プロレスそのものも見る人の心の角度によってまったく味わいが違う。何を受けとめ何を感じたか。「真実」はわからない。確実なことは、自分が思う「真実らしきもの」があるのみ。いったいリングの中で何が行われていたのか、自分の見立てやその真贋を探るためには、スポーツ紙やプロレス雑誌でさまざまな視点を読み比べてみるしか手だてがなかった。だから、夢中でむさぼり読んだ。プロレスファンは、「リテラシー」なんて言葉を知らない頃から、おのずと高い「読むリテラシー」を身に付けていたのだ。

 私は決して「昔はよかった」などという懐古趣味に浸るつもりはない。昔の人のほうがリテラシーの高い「意識高い系」だったわけではなく、やむを得ず「疑う」機会に日常から恵まれていただけだと思う。あやふやでグレーな情報が周りにあふれていたからこそ、それに騙されて怒ったりがっかりしたりしながら、物事には多面的な見方や視点があるということを学んだ。グレーなものを、グレーなまま楽しんで味わうというゆとりを少しずつ身に付けた。

 最初はプロレス雑誌やテレビから学び、スポーツ新聞、そして『朝日』や『読売』のような一般朝刊紙も、実は同じではないかということに気付いていったのだ。

 新聞は、おじさんが書いておじさんが受信する、いわば「オヤジジャーナル」だ。

 インターネットの活用が当然となった今、新聞のことを「旧メディアの偏向報道」「腐ったマスゴミ」と馬鹿にする人たちもいる。だが、切り捨てるのはもったいないと思うのだ。旧メディアには旧メディアの役割や論理がある。今まで培われてきた伝統の作法がある。

 たとえば一般紙であれば、載せるからには誰かに裏を取っている。そのうえで新聞の思惑が反映されていることもある。だったら、「正しいか正しくないか」ではなく、「誰が何を伝えようとしたのか」を読み解くために、あるもの(新聞)は利用したほうがおもしろいではないか。「また朝日と産経が全然違うこと言ってるぞ」と覗き見するくらいの下世話な気持ちで、マスコミを「信用する」のではなく「利用する」という気構えでいればいい。新聞にも観客論が必要だと思うのだ。

 新聞は、キャラが違うからこそおもしろい。書いていることがバラバラだからこそ、読み比べる楽しさがある。本書では、その楽しみ方のコツを、わずかながらみなさんと共有したいと思う。次にまた『朝日』と『東スポ』の見出しが同じになる日がきたら、それは日本が何か深刻な状況になっているときだろう。新聞のそれぞれ違う価値観を味わえる日々が続くことを、下世話に願いたい。 

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