今、目の前にあるのは中央通路。そして、先ほどおれが襲われたのは、アルプス広場だった。広場という表現に相応しく、やや開けている。待ち合わせをしていると思しき女子もいた。因みに、アルプス感は無い。
「私は、北通路でスライムと呼ばれるあの異形を滅した」
 こちらの様子に気付いたのか、ニコライがそう言う。
 北通路と言えば、中央通路に対して鉄道警察の施設を挟んで反対側だ。経由するには、アルプス広場を通ると早い。北通路には、コインロッカーもトイレもある。
「ああ、こっちにもトイレがあるのか。親切設計だな。お腹を下した時に助かる」
 中央通路側にもトイレはある。だが、人通りが多いので、緊急事態になって慌てて入っても、満室の可能性が高い。だけど、二カ所あるならば安心だ。
「腹をよく下すのか?」
 ニコライは、次々と床から這い出すスライムから目を離さずに問う。
「まあ、そんなに胃腸が強くなくてさ。出勤の度に、ぎゅるぎゅる言い出すんだよ。もう、そんな時は、トイレに引きこもって、『時よ止まれ、お腹痛いから』って祈るんだ。会社に遅れるし」
 それでも、最近はそんなことも殆ど無くなっていた。何故なら、常に出勤しているので、通勤タイムが消失してしまったのだ。
「ふむ。乗るはずの電車が行ってしまったら、一大事だしな」
「そうそう。分かってくれるか!」
 まさか、こんな日本の労働者のあるある話にニコライが乗ってくれるとは思わなかった。何だか嬉しくなって、ヘッドバンギングのごとく頷く。
「あ、でも、いっそのこと、電車がどうにかなったらいいな、とは思うな。まあ、駅でもいいんだけど」
「ほう?」
「だって、事件が起きて運休になったら、会社に堂々と遅刻出来るし、あわよくば休めるじゃん。おれは、合法的に、休みたい!」
 ぐっと拳を握る。
「成程な。理解出来た」
「マジで!? 堅物のいけ好かないイケメンかと思ったら、意外と理解のある――」
 理解のある奴じゃないか。
 そう見直そうと思ったその時、「うわあああっ」と悲鳴があがった。見ると、スーツ姿の男性が、スライムに足を捕えられていた。他にも、ハイヒールをスライムに喰われ、右往左往している女性もいる。
「やはり、『足を引っ張って』いる……。この騒ぎの中心になっている人物は、お前と同じ人種らしい」
「へ? それって、どういう……」
 おれの返事など待たず、ニコライは走り出した。シャシュカを抜き放ち、男性を襲っているスライムまで一気に距離を詰める。
「動くな!」
「は、はいぃ!」
 男性は悲鳴のような声をあげて固まる。ニコライのシャシュカは、スライムを一刀両断のもとに斬り伏せた。
 続けて、女性のハイヒールを取り込んだスライムを斬り捨てる。スライムは溶けて、革の表面の剥げかけたハイヒールが床に転がった。
「あ、有り難う御座います」
「踵も溶けているだろうから、直して貰え。そうでないと、危ないからな」
 確かに、左右の高さが違うのでは、バランスが取り辛い。転ぶ可能性もあった。
 女性は何度も頷く。ニコライの背中を、キラキラする眼差しで見つめていた。恋する乙女の顔だ。さっきのスーツ姿の男性も、似たような表情でニコライを見つめている。
 しかし、ニコライは全く気にしない。それどころか、振り返る気配もない。
 シャシュカを手にしたまま、ぎょっとする通行人を掻き分けて、いずこかへ向かう。
「ど、何処に行くんだよ!」
 おれは慌てて追いかける。しかし、ニコライの方が圧倒的に速い。あっという間に引き離されてしまった。
 ニコライが向かったのは、北通路側だった。コートの裾をひるがえし、颯爽と入って行ったのはトイレだった。
「まさか、お腹が痛かったのか……?」
 いやいや。
 見当外れな考えを振り切り、おれも続く。
 びっくりして逃げるように飛び出して来た人とすれ違った。「社会の窓」が全開だったが、指摘している暇はなかった。せめて電車に乗る前に、自主的に気付いて貰いたい。
「おい、開けろ」
 ニコライは、きっちりと閉ざされている個室に声をかける。返って来たのは、沈黙だった。
「ここに居るのは分かっている。開けるんだ」
 沈黙。扉の向こうは、黙して語らない。
「何やってるんだ、ニコライ。よく分からないけど、こういう時はノックをしないと」
 コンコン、と軽くノックをする。しかし、やはり返って来たのは、押し殺したような沈黙だった。
「反応が無いじゃないか」
「こ、これは、たまたま、調子が悪かっただけだよ!」
 何の調子かは分からないが、必死に言い訳をする。ニコライは、開く気配が無い個室の扉に向かって、溜息を吐いた。
「仕方が無いな」
 まさか、シャシュカで破壊しようというのだろうか。
 ドキドキするおれ。一歩下がるニコライ。しかし、彼は踵を返してしまった。
「大きな事故があって、鉄道が全線運休になったのでどうしようもないから、時間を潰そうと思ったのだが」
 いきなり、大きな声でそう言った。あまりにも棒読みな上に無茶苦茶な設定に、一瞬、ツッコミをすることすら忘れる。
 その時だった。
「マジで!?」
 個室の扉が開き、嬉々として若い男が飛び出して来た。扉を開けた先に居た、冷めた目のニコライを見て、「あっ」と声をあげる。
「この国の神話を読んでおいて良かった。天岩戸作戦は成功のようだな」
 運休の連絡に喜んで出て来る天照大神なんて、おれは嫌だ。
「休憩は、充分に取れたか?」
「ひ、ひぃぃ」
 若い男は個室に逃げようとするが、ニコライに首根っこを掴まれてしまった。無慈悲である。
「ニ、ニコライ。その人が何をしたっていうんだよ」
 見ていられなくなって、二人の間に割って入ろうとする。若い男は、おれぐらいの年齢で、線が細くて胃が弱そうだった。新しいスーツを着ているから、どこぞの新入社員なんだろう。
「今に分かる」
「や、やめろよ。顔が真っ青じゃないか。個室に戻してやらないと、取り返しがつかない事態になるぞ!」
 既に、彼の内臓は激痛に支配されているに違いない。その後はどうなるか、おれはよく知っている。ニコライは、彼に人間の尊厳を壊されるような屈辱を味わわせたいんだろうか。
 何たる鬼畜!
 急いでニコライの手を離させようとしていると、ぼとっと何かが肩に降って来た。
「へ? なに、これ」
 見るとそれは、巨大な求肥だった。いや、スライムだった。
「ぎゃああ! ニコライさん、取って!」
「煩いぞ」
 ニコライは、若い男を見つめているだけだった。服を溶かされてはかなわないので、壁にこすりつけて取ろうとする。
 しかし、床に視線を落としたおれは、目を疑った。床にも、ぽこぽことスライムが湧いているではないか。
「ニ、ニコライ。スライムがいっぱいなんだけど……。このままだと、こいつらが集まってキングになっちゃう……」
「そうなったら、私が倒すからいい」
 素っ気なく、自信満々に言い放たれてしまった。そうなるともう、何も言えない。
「――やはり。お前が発生源か」
 ニコライは若い男を見ながら、そう呟いた。
 発生源? スライムの? その男の人が?
 どう見ても、気弱な新人ビジネスマンである。魔物を操る魔導士や召喚士の類には見えない。男もまた、何を言っているのか分からないと言わんばかりに、首を横に振っている。
「会社に、行きたくないんだな?」
 ニコライは問う。
「そ、それは……」
 若い男は、躊躇いがちに視線を彷徨わせた。


※この連載は、『もしもパワハラ上司がドラゴンにさらわれたら』p.16~の試し読みです。続きは、ぜひ書籍をお手にとってお楽しみください!

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