「や、やめろ! おれをどうする気だ! 食べるにしたって、お前の大きさじゃ無理だろ!」
 スライムは答えない。もがいても、もがいても、びくともしない。
「わ、分かったぞ! 服だけ溶かすつもりだな! そして、乱暴する気だろう! えっちな本みたいに!」
 もはや、自分で何を言っているのか分からない。こちらを見ていた通行人は、スマホをおれに向けている。このままでは、あられもない姿になったおれの画像がSNSに投稿されてしまう。そして、全世界に共有されてしまう!
 絶体絶命の大ピンチを前に、今までの思い出が走馬灯のように蘇った。
 朝も夜も会社で過ごしたこと。オフィスのシャワーで身体を流したこと。マッサージチェアで仮眠を取ったこと。マッサージチェアが先輩に使われていた時は、寝袋にくるまって会議室の床で寝たこと。空の栄養ドリンクの瓶に話しかけていたこと。最近、抜け毛が多くなったこと。
「いい思い出が一つもない!」
 社畜人生のまま、終わってたまるか!
 次の瞬間、おれの身体は弾かれるような衝撃を覚えた。束縛から逃れ、逃げようとしていた勢いのまま、床にごろごろと転がる。
「え、あ……?」
 スライムは、真っ二つになっていた。しゅーしゅーと湯気を出しながら、あっという間に床に溶けていく。
 おれの目の前には、黒衣の人影があった。その人物が助けてくれたのだろうか。しかし、手にしていたものにぎょっとする。
 剣だ。湾曲した刀身の、シャシュカだ。すらりとした刃が、冷ややかに輝いている。その剣でスライムを一刀両断のもとに斬り伏せたことは、一目瞭然だった。
 黒衣の人物はふっと振り返る。その姿に、息を呑んだ。
 銀の髪が、駅構内を吹き抜ける風を受けてサラサラとなびく。色素の薄い肌は、不可侵の雪原を連想させた。
 年齢は、おれと同じくらいだろうか。
 その瞳は、赤だった。深紅のそれはガラス玉のようでいて、目鼻立ちは精巧に作られたビスクドールのように美しい。
 北国の誇り高き狼のような、美女だった。
 その身を包む軍服のような黒いコートが身体の起伏を隠しているが、きっとその肢体も美しいに違いない。女性にしてはかなりの長身で、モデルのようでもあった。
 しばらく夢見心地だったが、美女がこちらを見たのでハッとする。
「あ、あの、初めまして。た、助けてくれて有り難う御座います」
 ひとまず、お礼は言わなくては。どう見ても日本人離れしている容姿だけど、言葉は通じるだろうか。
 緊張のあまりに手汗をかくおれに、美女はツカツカと歩み寄る。あまりにも背が高いのでヒールでも履いているのかと思ったが、そうではなかった。
 その美女は、あろうことか、おれの前で膝を折った。その視線は、汗でぐっしょりと濡れた手に注がれている。
「あっ……!」
 手からは血が滲んでいた。転んだ時に怪我をしたのだろう。この美女は、そんなおれの怪我を案じているんだろうか。
 美女がそっとおれの手を取る。手当てをしてくれるんだろうか。
 しかし、美女は包帯やハンカチの類を取り出すわけでもなく、そっと唇をおれの手に寄せようとしていた。
 こ、これはどんな状況だろう。美女のふっくらとした唇が、おれの手に重ねられようとしているんだろうか。騎士が姫にやるような誓いのキスをしようというのだろうか。おれ、姫じゃないけど。
「ちょ、ちょっと、困ります……!」
 美女の唇が身体に触れると思っただけで、顔から火が出そうになる。しかし、慌てるおれのことなど知らぬと言わんばかりに、美女は唇を更に近づけ……。
「くっさ」
「え?」
 美女の顔は露骨にしかめられていた。というか、声がかなり低くないか……?
「貴様の血、あまりにも臭過ぎる。一体何を食べているんだ」
 相手は、実に流暢な日本語でおれを罵った。
「えっと、今朝はレトルトカレーだけど、昨日の夜はカップ麺で、昼はカップ麺、朝もカップ麺で、その前日も……」
「インスタント料理しか食べていないとは。怠惰にもほどがある。日本人の味覚は高く評価しているが、貴様の味覚は星ひとつだな」
「し、失礼な! 今朝も昨日の飯も、ちゃんと味を変えてるっていうの! それに、日本のカップ麺は美味いんだぞ! 美女だからってなめんな!」
「び、美女……?」
 相手の顔が強張る。
「ロシアン美人だと思ってちょっとドキドキしたが、カップ麺を馬鹿にする奴は許せない! そこに座りなさい。カップ麺の良さについて語ってやる!」
「おい」
 美女の目は殺気立っていた。シベリアの大地の如ときそれに、思わず口を噤む。
 そんな美女は、ぐいっとおれの手を引きよせたかと思うと、あろうことか、己の胸に押し付けた。
「ひええええ!」
 これはいけない。おれの手がコート越しとは言え、柔らかな乳房を包み込むなんて!
「……あれ?」
 柔らかく無い。
 むしろ、硬い。おれよりも逞しい。
「も、もしかして」
 さあっと身体中の血がひいていく。
「私はニコライ・チェルノコフ。正真正銘の男だ」
 ニコライ氏のこめかみには、青筋が立っていた。ご立腹だった。どうやら、肌が白いと青筋が目立つようだ。
「お、お、男!?」
 確かに、よく見れば肩幅もあるし、喉仏だってある。繊細な顔立ちだが、全身にまとう雰囲気は雄々しい。
「こ、これは失礼をば!」
「ふん。その程度の観察眼だったと思って許してやろう」
 無駄にえらそうだった。
「というか、さっきのスライムもどきは一体……」
「夢だ。幻だ。全て忘れろ。そして、家に帰れ」
 ニコライと名乗った人物は、素っ気なく言った。
「おいおい。そんな態度は無いだろ。こっちは靴まで溶かされてるんだぞ。夢のわけがあるかって」
「世の中、関わらない方が良いこともある」
 取り付く島もない。
「もう一度言うぞ。家に帰れ」
 ニコライは、「ハウス」と繰り返した。


※第3回は3月11日(土)公開予定です。この連載は、『もしもパワハラ上司がドラゴンにさらわれたら』p.16~の試し読みです。

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