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2017.03.03

マインドフルネスも、私ではないのです。

小池 龍之介

マインドフルネスも、私ではないのです。

 いろいろな角度から、本当は、この世には誰もいないし、いない以上は本当は、何者でもなければ何者にもなり得ないという話をしてまいりました。

 ひるがえって、いわゆる「マインドフルネス」のトレーニングをしている人の99.9%のかたは実感として、「私が、マインドフルな状態になっている」と感じていると思います。また、マインドフルに気づいていることが感じられている度合いが高まってくるに従って、この「気づき」=「マインドフルネス」こそが私であるという気分が生じてくることでしょう。

 そんなわけで、内面観察を集中的におこなう指導をしていますと、しばしばこんな質問が生徒さんたちから出るのは、ごく自然なことです。

「観察していると、身体感覚や思考は勝手に出てき続けるもので、住職の言うとおり単なるドミノ倒しのようなもので、それを私だとは言えないのが少しずつ分かってきました。でも、それらを観察して気づいているのは、私ではないのですか?」と。

 いやはや、「観察」や「気づき」の中に「私がやっている感」を見出すこともまた、脳によって提供される豊富な嘘と罠の、典型例の一つだと思われます。しかし、そうした甘い誘惑を鵜呑みにせず、これまでどおりよく吟味してみることです。

 ――気づいて観察している機能を、私という主人がいて操っているのかどうかを。

 たとえば今、この文章によって「あなたの今の内面に気づいてください!」と喚起されますと、マインドフルネスが習慣化してきている人にとっては自然に、心や身体に対して気づきが生じやすいことでしょう。習慣化が弱ければ、それに応じて弱い気づきが生じたり、もしくは生じすらしないかもしれません。また、そうして生じたり生じなかったりする程度は、読者のかたが、ここに書きつけられている言葉をどの程度信頼していて、それを好もしいと確信しているか、にも左右されることでしょう。

 つまり、そのような事前に蓄積された原因(過去の業)によって、その時々の気づきは大きく生じたり小さく生じたり、生じなかったりするのであって、因果関係に従属しています。であれば、「気づき」もまた、パタパタと勝手に倒れてゆくドミノ倒しの中に含まれていて、自由に起動したり消したりはできていないことが、分かるでしょう。

 また、瞑想修行を日々の生活の中で中心的課題として遂行しようとしているなら、やがて少しずつ分かってくるはずです。たとえいったん、あたかも自らの感情のすみずみまでクリアに見渡せ、また、身体の細部にわたるまで微細な身体感覚が生じては消えてゆくのが気づかれているように感じられたとしても、その気づきの精度も、勝手に栄枯盛衰を辿るのだ、と。

 ですから、「気づき」によって内面が細かく鋭敏に感じられるときがあったとしても、やがては再びボンヤリとモヤがかかったようにもなるものです。そして鮮明になったりボヤけたりを繰り返しながら、徐々に高まってゆくのでありまして、「鮮明になれ!」と命じて鮮明になるわけではないのです。

 ところが、よくあることですが、「これだけ細かくあらゆることに気づいていられて見晴らしがよく、気分がいいなぁ」とでも執着したなら、諸行無常の法にしたがって、絶対にしっぺ返しを受けることでしょう。やがては、かつて意識を鈍らせるようなことを考えたりやったりしてきた業による因果関係が活発化し、再び気づきが精彩を欠き、何だかボンヤリとして、自分が何を考え何を感じているかについて、表面的でザックリしたことしか気づかなくなるときもくることでしょう。そうしたとき、「気づき」の細かさに執着しているなら、ひどく苛々するはずです。

 それもこれも、「細かく気づけるようになった私」という慢心のイメージに耽溺し依存したがゆえに、それが失われるときに打撃を受け、ストレスを感じるという所為なのですよ。

 いかがでしょう。「私が気づきを細やかにした」とか「私が気づきを鈍くした」とか、言えるでしょうか? 前者は、単に継続的トレーニングから自動的に習慣化した結果として生じやすくなるだけで、後者は悪業の結果として生じやすくなるだけで、つまり本当は誰も、それをやっていないのです。細やかになるときは細やかになりますし、鈍くなるときは鈍くなるのです。気づきは誰のものでもなく、執着するには、値しません。「こうなれ!」「ああなれ!」と叫んで、かんしゃくを起こさないようにいたしましょう。

 ですから大切なのは、「気づき」がいったん高まっても喜びも期待もせずスルーし、また、「気づき」が弱まったり粗雑になっても落胆したり「このまま粗いままであり続けたらどうしよう」なんて心配したりはせずに、勝手に変化してゆく変動のプロセスだと、気楽に放置しておくことです。

 そうしてとにかく、日常生活での悪業が減るようにしつつ、「気づき」がいっそう習慣化するよう修錬を続けることで、徐々に徐々に、変動の振れ幅が改善してゆくのです。

 ――さて、振れ幅が改善、と申しましたが、それは、私が、改善するのですか?いいえ、もちろん、誰も。

 次回も続いてもう少し、「気づき」そのものについて掘り下げて考察を加えてみましょう。

 

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