電通の過労死自殺をきっかけに、日本の長時間労働がいよいよ問題になっています。とはいえ、働くことこそ生きること、なんでもいいから仕事を探せという風潮は根強く、息苦しさを感じ続けている人も多いのではないでしょうか。本書『仕事なんか生きがいにするな ~生きる意味を再び考える』は、仕事中心の人生から脱し、新たな生きがいを見つけるヒントが詰まった1冊です。

人間は、生きることに「意味」が感じられないと、生きていけなくなってしまうという特異な性質を持つ、唯一の動物です。

「言葉」という特別なツールを持つようになった人間は、精緻なコミュニケーションが可能になったのみならず、これを用いて「考える」ことができるようになりました。そしてここから「生きる意味を問う」という、最も人間的な行為も生じました。

 私たちは今日、少なくとも物質面や衛生面において、そして何より情報化という側面において、様々な欠乏や不具合を解消し、かなり便利で安全な生活を手に入れました。しかしその一方で、この一見豊かになった現代において、「生きる意味」が感じられないと苦悩する人々が、急激に増えてきています。
 

「温度の高い」悩みから「温度の低い」悩みへ

 私がかつて精神科医として扱うことが多かった問題は、例えば「愛情の飢え」「劣等感」「人間不信」といった熱い情念が絡んだ悩み、いわば「温度の高い」悩みが中心でした。しかし最近では、「自分が何をしたいのかわからない」といった「存在意義」や「生きる意味」に関するテーマが持ち込まれることが多く、これを一人密かに苦悩しているような「温度の低い」悩みが主要なものになってきているのです。

 しかし、これまでの精神医学や心理学は、おもに「温度の高い」悩みや精神病を扱うことに力点を置いてきたせいか、この種の「温度の低い」問題に対しては、その本質を捉えることができていないように思われます。

 例えば、近年激増したいわゆる「新型うつ」に対して、一部の精神科医たちからなされている批判的発言などは、まさしくこのことを象徴している現象ではないかと思います。

 従来のアプローチでは歯が立たない苛立ちからか、治療者としての無力感が器用に反転されて、「このような病態は精神医学が真正面から扱うに値しない類のものであり、そもそも患者の意志の薄弱さが原因なのだ」といった問題のすり替えが、平然と行われてしまっていますが、これは心理学で有名な「酸っぱいブドウの機制(*1)」という防衛機制によるもので、自身のプライドを守るために対象の価値を切り下げるという歪んだ合理化です。

 しかし、困ったことにこのような偏狭な精神論も、ひとたび専門家の肩書で語られてしまうと、これがあたかも学問的に正論であるかのように世間には認知されてしまいます。それによって、そうでなくとも自信を喪失しているクライアントたちは、「新型うつ」への偏見による自責感までをも背負い込むことになって、精神的にさらに追い詰められてしまうことも珍しくありません。

 このように、最も人間的な苦悩であるはずの「温度の低い悩み」を扱えないのだとしたら、精神医学も心理学も看板に偽りありという誹(そし)りを免れないでしょうが、このような問題に警鐘を鳴らした専門家がいなかったわけではありません。

 ヴィクトール・E・フランクルは、主著『夜と霧』で知られるユダヤ人精神科医ですが、一九七七年に刊行された彼の『生きがい喪失の悩み』は、次のような言葉で始められています。

 

 どの時代にもそれなりの神経症があり、またどの時代もそれなりの精神療法を必要としています。

 事実、私たちは今日ではもはやフロイトの時代におけるように性的な欲求不満と対決しているわけではなくて、実存的な欲求不満と対決しています。また今日の典型的な患者は、もはやアドラーの時代におけるように劣等感にさほど悩んでいるわけではなく、底知れない無意味感に悩んでおり、そしてこれは空虚感と結び合わされているので、私は実存的真空と呼んでいるのであります。

(『生きがい喪失の悩み』より ヴィクトール・E・フランクル著 中村友太郎訳)

 

 補足すれば、フロイトが問題にした「抑圧」のテーマやアドラーが問題にした「人間関係の悩み」や「劣等感」といったテーマが、現代においてなくなったということではありません。時代の変遷の中で、メインとなるテーマがより実存的なものへと移り変わってきているということを、フランクルは鋭敏に察知し、そのことを指摘しているのです。そして、ここで言われている「実存的な欲求不満」「底知れない無意味感」「空虚感」といったものこそ、まさしく、私が先ほど「温度の低い悩み」と呼んだ悩みそのものなのです。

 フランクルは一九〇五年にウィーンに生まれましたが、ユダヤ人であったがためにナチスによって強制収容所に収容され、かの過酷な経験をしました。しかし幸運にも生還した彼は、その経験を深く考察し、のちにこれを『夜と霧』という本に結実させたのです。

 この本でフランクルは、人間について、とても重要な真実を述べています。それはつまり、人間という存在は「生きる意味」を見失うと、精神が衰弱してしまうのみならず生命そのものまでもが衰弱し、ついには死に至ってしまうこともある、ということです。

 彼が目撃したこの人間の真実は、決して強制収容所という限界状況だけで認められる特殊なものではなく、一見平和な暮らしを営んでいる私たちにもそのまま当てはまる普遍的なものです。

 フランクルは、この重要な真実をかなり以前に指摘していたわけですが、迂闊(うかつ)にも私たちは、この警鐘に耳を傾けず大切な「実存的な問い」をどこかに置き忘れたまま、今日まで来てしまいました。


*1…ブドウを手に入れようとしたけれど取れなかったキツネが、「あのブドウはどうせ熟れてなくて酸っぱいんだ!」と悔し紛れにつぶやいたというイソップ物語の話に基づいて、フロイトが合理化という心理的防衛機制を説明したもの。「欲しくても手に入らない」対象を、「手に入れるほどの価値のないもの」と認識をすり替えて納得しようとすることを言う。

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