夏でも冬でも、夕食の食卓には炭火を使う。食卓の傍らに小さな七輪を置き、夏は羊肉やとうもろこしを焼き、冬は小鍋をかけて湯豆腐やとり鍋などをやる。よほど忙しいときでないかぎり炭火の隣に座り、二、三時間酒を飲む。それが我が家の晩ごはんである。風流人を気取って炭火にこだわっているわけではない。ほとんどの料理は台所のガス台で作るのだが、食事の間、炭が燃えているとなぜかほっとして、その時間が楽しく思えるからそうしているだけだ。
 炭火をいいなと思ったのは、ある年の冬に九州の山奥にある温泉旅館に泊まったときだった。もう、二五年ほど前のことである。朝、まだ夜の寒さが残るロビーへ行くと爐の灰の上に炭が置かれていた。雰囲気を出すための演出だろうと思っていたのだが、しばらくすると宿の人が白い息を吐きながらやって来て、その炭に火をおこし鉄瓶をかけた。僕は爐のそばの椅子に座って、ずっと炭火が燃えるのを待っていたのだが、時折、キン、キンと音がするだけで、なかなか赤々と燃えてこなかった。
「これ、消えているんじゃないですか」
 尋ねると、
「炭はね、そんなに早く燃えないんですよ」
 と宿の人が言う。
 黒い炭の端っこについていた赤い小さな火は実にゆっくりと燃えていくのだった。炭はガスコンロの火のようにレバーで火力を調整したり、一瞬であたたまったりするものではないのだ。そして、このとき僕は、はっとした。絵を描くことも同じではないだろうか、と。おそらく僕は、絵を描くときも自然の時の流れを受け入れずせっかちにしていたかもしれない。絵は描くものではない。何者かに描かされるものだ。その何者かに耳をすますべきだろう。一人で空回りして、急いで何になるというのか。そんなことを思った。  
 旅から戻ると、東京でも炭火のある生活がしてみたくなり、古道具屋で火鉢を買い求めアトリエに置くようになった。
 初めは、ただ炭火を燃やすだけではもったいないと思い、作画中に薬缶をかけて湯を沸かし、茶やコーヒーを淹れていた。しかしそのうち食事のときにも炭がほしくなって、七輪を買ってきて酒の燗をつけたり、湯豆腐をやったり、餅やうるめを焼いたりするようになった。炭火を使うと安い食パンなどでも香ばしく焼けてうまい。燗をした酒も、ガスのときと味がちがうように思う。よく言われる遠赤外線の効果なのだろう。だが、僕の場合はなにより、ただ傍らで炭が赤く燃えているだけで、心安らいで絵と向き合っていられるのである。

 

 

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