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2017.01.10

第17回

二度目のお別れ

佐久間 裕美子

二度目のお別れ

 ここ数年、どんどん寒く、長くなるニューヨークの冬に辟易して、フリーランスであることをいいことに、去年の2月はまるまる一ヶ月、西海岸を旅することにした。シアトル、サンフランシスコ、バークレー、オークランド、ニューメキシコ、LAを旅しながら、取材しようとリストしていた場所を訪ねたり、友達に会ったり、合間にスキーに行ったりして過ごした1ヶ月は、「そうだった、自分は旅をしているときが一番幸せなのだった」と思わせてくれる贅沢な時間だった。
 3月の最初の週末にニューヨークの家に戻り、月曜日の朝、自宅のリビングでヨガをしながら「ああなんて幸せなんだろう、人生って最高だ」と思った瞬間、心のなかに住んでいて時々顔を出す悲観的な自分が「でもこのまま平穏に時間が過ぎていくと思うなよ、だって人生ってそういうもんだから」と囁いた。

 数日後、長らく会っていなかった元義理の妹と会うことになっていた。英語でいうと「フォーマー・シスター・イン・ロー」、まどろっこしいけれど、要はかつて結婚していた人の妹である。
 大学院時代に暮らしていたニューヘイブンで知り合った彼のことは、会ってすぐに「味方だ」と思った。大人はおろか、ボーイフレンドたちにもたしなめられてばかりいた自分が、初めて会った「自分のことを制御しようとしない人」だった。そして私以上に、いつも冒険を渇望している人だった。大学院を卒業するとき、ニューヨーク生まれだった彼も、私と一緒に上京する道を選んだ。そしてニューヨークに移って3年後には結婚した。

 当時の私たちのモットーは「Don't let them tell you how to live」だった。them はメインストリームの社会のこと。ニューヨークのような拝金主義の権化のような場所で、社会に出たばかりで大した稼ぎもない自分たちは社会の底辺を生きているような感覚があった。大人たちはいろいろなことを言うけれど、自分たちは自分たちが思うとおりに生きればいいのだ、と強く思っていた。そして自分たちだったら「結婚」という凡庸な連帯の形を、つまらなくない方法でできるのだと、今思えば、青臭くて恥ずかしいようなことを、無駄に好戦的な態度で考えていたのだ。それに加えて彼は、結婚でもしなければ、私がまたどこかへ行ってしまうのではないかと恐れていたようだった。だから、自分が思っていたよりずっと早く、結婚した。

 義妹のミリアムと初めて会ったのは、彼女がまだ17歳、高校3年生のときだった。ニューヨーク生活の1年目、感謝祭の休みを使って彼の実家を訪ねたとき、シャイな様子で母親の後ろに隠れるようにしながら、おずおずと握手の手を差し出してきた姿が、はっきりと記憶に残っている。そんな彼女も、もうすっかり大人になって、今もブルックリンに暮らしている。
 ダンサーとして、そしてパーソナル・トレーナーとして相変わらずがんばりを続けていることは、フェイスブックで見て頼もしく思っていた。久しぶりに会いたいなと思いながら、きっかけがつかめないままもう5年近くの月日が経っていたのを、ウェブ媒体でやっている「友達を訪ねる」という内容のコラムを口実に、ついに連絡をとり、彼女がジムでタフなワークアウトのクラスを教えるという日の午前中、彼女のアパートでコーヒーを飲もうという話になった。
「ニューヨークにきてからもう15年になるなんて信じられないと思わない?」
 いくつになったかを聞くと、33歳になっていた。シカゴで高校を卒業し、ダンサーを目指してニューヨークにやってきた直後に、ワールド・トレード・センターが倒壊するテロが起きて、恐怖のあまり「シカゴに帰りたい」と泣いていた彼女だけれど、トレーナーとして生計を立てながら、インディペンデントに振付師として、ダンサーとして作品を発表し続けている。目は昔と同じようにきらきらと輝いていた。めいっぱい生きている人の目だと思った。
「作品を発表するのにお金もかかる。黒字になるなんて稀だし、疲れることがないと言ったら嘘になる」
 ニューヨークを離れようと思うことはない?と聞くと、
「考えない日はない」
と笑ったあとに
「それでも別の場所に行けば楽になる、ハッピーになるって考えるのは間違っている気がするの。大切なのは自分の心の持ちようだから」
 頑なに楽な道を通ろうとしない姿に、昔と変わらない彼女だと幸せな気持になった。
 コーヒーを飲み終えて帰り支度を始めた私に、17歳のときと同じようにはにかみながら彼女が言った。
「これからは、もうちょっと頻繁に会える? プリーズ?」
 結婚していた当時、とても仲良くしていた義妹と、もっと時間を過ごさないできた自分を恥じながら、彼女のアパートを後にした。
 締め切りをすぎていたコラムをタクシーの中で書き終え、外での仕事を終えたあと、路上でばったり会った古い知人と立ち話をしていたら、彼女から電話がかかってきた。「忘れ物でもしたかな」と思いつつ、会話の切れ目がつかめなくて、留守番電話を確認したのは、数分経ってからだった。
 泣いていて何を言っているのかよく聞こえない。「兄」「死んだ」という二語だけが耳に入ってきたあと、目の前が真っ暗になった。元だんなが亡くなったのだった。
 そのまま地下鉄に飛び乗って、彼女のアパートに急行した。

 

 自分の人生の10年近くの時間を一緒に過ごした彼が亡くなって、義理の母に最初にかけた電話はとても辛かった。
 お腹を痛めて産んだ子供が先に逝くという事態に、辛さのにじみ出る声ではあったけれど、今思うと、まだあのときはその事実が完全に浸透していなかったのだと思う。
「まさかと思うけれど、お願いだから責任を感じるなんてことはやめてちょうだいね」
 と彼女はまず私を気遣った。
 もう別れてから何年も経つのに、義母がこう言うのには理由がある。私が会社を辞めて独立し、すれ違いが増えたとき、私は仕事にのめり込み、彼はアルコールにのめり込んでいった。そもそも父親を筆頭にアルコール中毒の多い家系だったし、歯止めになるようなものもなかった。私は私で出張が増え、家にいてもずっと机に向かうようになった。決定的な事件が起きたわけでもなく、嫌いになったわけでもないけれど、気がついたら私たちの結婚はもう修復不可能なほど壊れてしまっていた。
 冷静に話し合って、別れることを決めて、傷つけ合わないようにことを慎重に運びながらなんとか離婚にこぎつけた。家族や大切な友人たちの前でした約束を反故にして、人生の同志だと思っていた人のもとを去るのは簡単ではなかったけれど、お酒におぼれる彼に対して、できることはないのだと自分に言い聞かせた。
 別れることにした、と連絡をしたとき、大体において自動的に女性の味方をしてしまうタイプのフェミニストである義母はきっぱりと「あなたは正しいことをしている」と言った。彼と付き合いだしたその瞬間から、いつも私のことを「違うお母さんから生まれたけど、あなたは私の娘だから」と自分の家族の一員として扱ってくれた義母らしいなと思った。
 彼の不摂生は、離婚のあとに一度、格段にひどくなったようだった。離婚を契機に、目を覚ましてくれればいいと心のどこかで期待していたけれど、それは甘かった。だから私はしばらく彼に対してずいぶんと怒っていた。二人でニューヨークに出てきたときには、希望と野心に満ち溢れていたのに、いつしか自分の人生を破壊することばかりするようになってしまった彼に、腹を立てていたのだ。
 離婚してしばらく経ってから、彼から「おふくろがひとりで大変そうだから、一度彼女のところに行こうと思う」と連絡があった。声の調子から「田舎でデトックスするつもりなんだな」と安堵した。
 さらにしばらく経った2011年、東日本大震災が起きたとき、朝起きて、ニュースを知って呆然としていると、一番最初にかかってきた電話は彼からだった。電話を切ると同時に、義母、そして義妹からすぐに連絡があった。3人とも声を震わせて、私が生きていることに安堵し、私の家族の安否を気遣った。離婚して何年も経ったのになお、家族として扱ってくれる、そういう人たちだったんだ、と思いながら、彼に対して抱えてきた怒りが、溶けていくのを感じた。
 それからはときどきテキスト・メッセージ(ショートメール)がきた。東海岸に戻ることにした、ニューヘイブンに暮らしている、遊びにくるといい、というように、簡単な近況報告だったり、写真だったりした。誕生日には必ずメッセージを送ってくれた。元気にやっているのだと思っていた。
 今思えば、彼がアルコールに弱かったことは、彼がいつも肉体的な、そして精神的な痛みを抱えていたことと無関係ではない。母親と自分、そして幼い妹を虐待した父親への怒りや悲しみとともに生きていたし、生まれたときから複数のアレルギーや耳鼻咽喉系の器官に問題を抱えていた。恒常的に感じる痛みや不快感から逃げるために呑んで呑んで呑み続けたのだと思う。
 元気にやっている、と思い込んでいたのは、そのほうがラクだったからだ。彼の心の痛みは、一緒にいるときから私を疲弊したし、ほうほうの体でそこから逃げ出したのに、またそれと向き合いなおすのは辛かったから。
 友達の話や彼のフェイスブックのポストを総合してわかったのは、アルコールやドラッグに溺れては、ときどきデトックスする、ということを繰り返していた彼は、ここ1年ほどは、たまにビールを嗜む程度にアルコールをコントロールできるようになっていたけれど、冬になって鬱に苦しんでいた。バレンタインの日には、「こんなに孤独だと思ったことはない」とフェイスブックに悲しいポストが残っていた。そして仕事に遅刻したり、人に迷惑をかけたりしながら、ちょっと前に最悪の状態を脱し、親しい人たちには「もう大丈夫」と話していたという。けれど結局、ある夜、寝ている間に息をするのをやめてしまった。
 彼の遺体は、物理的に一番近いところにいた父親のはからいで、葬儀場に移送された。私が結婚していた頃は、存在しないかのように扱われていた父親との関係を、ここ数年修復しようとしていたということをあとで聞かされた。宗教を毛嫌いする家族は、これまた宗教を嫌った彼のために葬式をしない選択をしたけれど、火葬される前に、親しい人たちが彼の遺体に対面する時間をもうけた。
 母親の決断で、遺体との対面に招かれたのは、家族以外、私と彼の友人3人だけだった。もう何年も前に別れたとはいえ、一度結婚していた、ということはそういうことなのだろう。
「義務には感じないでほしい。出席したいかどうか自分で決断していいんだからね」と義妹は私を気遣った。
 出かけたのは、自分の目で彼が亡くなったことを確認しなかったら後悔すると思ったからだ。けれど現場に着くと、一足先に遺体と対面していた母は、取り乱しながら、私を止めようとした。
「あなたにあんな辛いものを見せるわけにはいかない」と泣く義母を説得し、死後5日経った遺体にお別れをし、妻でいることをやめた後、もっといい友人でいてあげられなかったことを詫びた。ひんやりとした葬儀場に横たわる彼は、私の記憶よりずっと小さく見えた。
 葬儀場を後にして、簡単な食事をするために立ち寄ったレストランで、義母は、私に「自分を責めるな」と言いながら、「愛が足りなかったんじゃないか」「突き放した自分が悪かったんじゃないか」と彼女自身を責め続けた。(後編に続く)
 

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