伊豆天城山で女たちの駆け込み寺「サンガ天城」を運営し、たくさんの悩める女性を救ってきた尼僧・戸澤宗充さん。著書『すべてを喜びとする。駆け込み寺庵主の「引き寄せ」問答』より、頑張ってるあなたの小さなモヤモヤをすっきり解消する問答をお届けします。


 日中戦争が始まった1937年5月に、私は東京・港区で生まれました。そしてその6年後に、満州の牡丹江へ渡りました。細かい事情はわかりませんけれど、父が満州にいた従兄から仕事に誘われたからだと聞いています。

 戦争中とはいえ、私たち一家は裕福な生活を送っていました。父は満州拓殖銀行に勤めていて、中国人の使用人を雇い、毎日白米を食べていました。ところが、私が小学校2年生のときに事態が一変したのです。1945年8月9日、日本のポツダム宣言拒否を理由に、不可侵条約を無視したソ連が満州を攻撃し始め、8月15日に日本が敗戦。私たち親子は奉天(現在の瀋陽)の収容所に入れられました。

 父は憲兵と間違えられてシベリアに送られたため、母と兄の3人。食べるものがないうえ、零下40度という厳寒の中で、次々と日本人が死んでいきました。妊娠している人もいて、母や、そのほかのお母さんたちが、無知ながら出産を手伝いましたが、ほとんどが死産でした。せっかく生きて生まれても、母親は栄養不足でお乳も出ないので、すぐに死んでしまいました。痩せ衰えた母親が差し出したその小さな亡骸(なき がら)を抱いて、公園に埋めに行ったことも一度や二度ではありません。凍(い)てついた土をつるはしで掘った音が今でも耳に残っています。

 そんな状況だったので、日本に生きて帰れる保証はまったくありませんでした。母は迷ったようですよ、お金持ちの中国人に子どもたちを預けたほうがいいのではないだろうかって。けれども母は、諦めなかった。きっと生きて日本に帰れると信じていたんです。そうしたら、翌年、船に乗ることができました。船と言っても、砲弾の穴があちこちに空いた貨物船です。一番船底に乗せられて、石炭の炭で真黒になりながらも、家族3人で「やっと日本に帰れる」と喜びあいました。けれど、船の中で病人が出ると、日本が見えているのに船が遠のいていくわけです。そして、死んでしまった人を甲板から投げてね。それでまたしばらくすると「あぁ、日本が近づいてきた」となる。でも、そうするとまた病人が出るわけです。そういうことを繰り返していたから、結局日本に着いたのは、船が出てから2カ月くらい経ってからでした。

 私の原点には、そういう、死と隣り合わせの経験があります。そのおかげで「せっかくこの世に生まれてきたんだから、元気で生きよう」という言葉が、自然と出てくる。
人生の伴侶を亡くしたり、多額の借金を背負ったり、生きているのが辛くなったりすることもあると思います。だけどね、今は辛いかもしれないけれど、希望を捨てずに一生懸命生きていれば、きっといいことがあります。人間はどんな状況でも受け入れて、歩んでいくことができると信じています。

せっかくこの世に
生まれてきたのだから
元気に生きましょう。

どんなにお金があっても
命は買えない。
命があることは何よりの財産。

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