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2016.12.13

第12回

カフェイン難民の昼と夜

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カフェイン難民の昼と夜

 睡眠薬を飲むようになったのは会社を辞めてからのことだった。
 自分はもともと夜の寝付きが悪くて夜更かしをしがちな上に、寝起きも悪くて朝なかなか起きられない人間だった。それでも会社に勤めているときは「無理にでも毎朝起きなければいけない」という強制力が働いていたからそれほど生活は崩れなかったのだけど、会社を辞めた途端、夜更かしも朝寝坊も好きなだけできるようになってしまったため、どんどん睡眠リズムが一般的なものからかけ離れていった。
 最初のうちは「好きなときに好きなだけ眠るのが無職の醍醐味だ」なんてうそぶきながら不規則な時間に眠る生活を楽しんでいた。「夜行性のほうが普通と違ってなんかカッコイイ」みたいな中二病的な思い込みもあったかもしれない。だけど、日が沈む頃に起きて日が昇る頃に眠るような昼夜逆転生活を続けているうちに、そんな生活がだんだん精神的にも体力的にもしんどくなってきた。
 夜しか起きていない生活だと昼間しか開いていない店には行けない。知り合いと会おうと思っても生活リズムが違いすぎて全く会えない。日の光を浴びないと気分も鬱々としてくる。そんなこんなで昼夜逆転生活にうんざりしてしまい、睡眠時間をちゃんとコントロールしたいと思うようになった。
 毎朝起きなければいけない用事があれば生活リズムは保たれるんだけど、朝起きるのはすごく苦手だし、そもそもそれが嫌で会社を辞めたのだ。じゃあ夜早く寝ればいいんだけど、寝付きが悪くてなかなか眠れないのが苦痛で、ついついずっとネットなどを見続けてしまう。結局辿り着いたのはネットショップ経由で睡眠薬を個人輸入するという方法だった。
 小さな箱に梱包されてシンガポールから届いた睡眠薬は僕にはよく効いて、眠れないときでも一錠飲んで三十分ほど待てばスッと眠りに入ることができた。ずっと苦しんでいた精神的な悩みがこんな指先ほどの化学物質を脳に入れることであっさり解決するなんて、科学の力はすごい。文明は偉大だ。
 そんな風にここ数年は睡眠薬のおかげで毎日一定の時間に眠れるようになってそれなりに安定した生活リズムで日々を過ごしていたのだけど、この間突然、その睡眠薬が輸入禁止になるというニュースが流れてきたのだった。やばい。これからどうやって眠ればいいんだ。また昼夜逆転の生活に戻るのか。
 別にその薬は海外から輸入しないと手に入らないというレアなものやヤバいものではない。普通に日本でも病院に行けば処方される平凡な薬だ。だけど病院に通院するという行為が僕は苦手すぎるので、病院で薬を貰うというのは多分無理だ。
 何とかして薬無しでうまく眠れるようになるしかない。どうすればいいんだろう。
そう思っていたときに、友人が「カフェインを一切摂らないようにしたらスムーズに眠れるようになった」と話しているのを聞いて、自分もカフェイン断ちを試してみようと思ったのだった。


 僕はコーヒーとチョコレートが大好きだったのだけど、一切摂るのをやめた。ちょっとつらいが仕方ない。お茶も緑茶や紅茶や烏龍茶はカフェインが入っているので、麦茶やハーブティー以外飲まないようにした。コーラもカフェインが入っているのでだめだ。そんな生活をしばらく続けてみた。
 カフェインを抜いた効果は結構如実に表れた。
 多分もともと僕はカフェインが効きやすい体質なのだろう。昔からコーヒーを2杯も飲むと心臓がバクバクして頭が覚醒しすぎて変な感じになってしまうのは自覚していた。寝付きが悪いのはカフェインの影響もあるかもしれないと薄々思いつつも、「夜にコーヒーを飲まなきゃ大丈夫だろう」とか「コーヒーじゃなくてお茶なら飲んでもいいだろう」と思っていたのだけど、見積もりが甘かったのだろう。
 一番早く気付いた効果は、心がなんだか穏やかになっているということだ。自覚していなかったけれど、カフェインを摂っていたときの自分はかすかな覚醒や焦燥がずっと頭蓋骨の裏側に張り付いてチリチリとしているような感じで、なんかいつもずっと薄くイライラしていたような気がする。
 カフェインを抜いて初めてそのことに気がついた。おお、あのイライラはカフェインのせいだったのか。てっきり自分が人間的に未熟なせいだとばかり思っていた(それもあるだろうけど)。
 あと、今まで昼寝をするのが苦手で、寝不足だからちょっと昼寝をしたいというときも素だとうまく眠れなくていちいち睡眠薬を飲んでいたのだけど、カフェインを抜いたら昼寝がスッとできるようになったのも感動した。これもカフェインのせいだったのか。自分が神経質すぎるせいだとばかり思っていた。
 さらに、朝の目覚めが良くなった。以前は8時間か9時間眠らないと不快感が残ってたまらなかったのだけど、最近は6時間や7時間睡眠でもさほど気にならなくなった。これはカフェインを抜いたことで睡眠の質がよくなったせいだろうか。
 あとなぜか、それまでたまに吸っていたタバコも、カフェインを抜いたら全く吸いたくなくなった。カフェインでイライラするのを抑えようとして今まで吸っていただけなのかもしれない。
 カフェインを摂らなくなった今では、あんな刺激の強いアッパー系ドラッグをよく今まで毎日摂取していたものだと思う。ちょっと効果に無自覚すぎたと反省している。
 今はまだ睡眠薬を飲むのはやめていない。買い置きしたストックが残っているし、カフェインをやめたことによる反動が少し落ち着くまでは別の薬の補助があったほうがいいと思っている。でもこの調子ならしばらくしたら薬なしで眠れるようになるかもしれない。


 ただ、カフェインを摂らなくなった副作用として一番深刻な問題は、外食をしたり喫茶店に行ったりするときに不便だということかもしれない。
 この社会はカフェインで溢れている。どこに行ってもコーヒーやお茶やコーラやチョコレートが提供される。ひょっとして、人々にカフェインを与えて微妙にイライラしたせっかちな状態の人間を増やすことで誰か得をしている黒幕がいるのではないか、という陰謀論的な発想をしたくなるくらいだ。
 街に出るとそこらじゅうに喫茶店がたくさんあるし、ところどころからはコーヒーを焙煎する良い香りが漂ってくる。今の僕にはコーヒーというものは強力で危険な黒い液体ドラッグにしか見えないのだけど、それでもコーヒーのあの香りだけは今でも素晴らしいと思う。カフェインを摂らないということは、この先ずっとあの良い香りから疎外されるということなのだろうか……。それはちょっと寂しい。カフェインレスコーヒーなんてものも売ってるけどあれはどうなのだろうか。
 ちょっと休憩したくて喫茶店に入ったときに飲むものに困ることが多くなった。コーヒーも紅茶も緑茶もだめなのでかなり頼めるメニューが限定されるのだ。
 しかたないので最近はスムージーとかラッシーとかルイボスティーばかり頼んでいるのだけど、いくつか選択肢がある場合はまだいいほうで、店によっては頼めるものがオレンジジュースしかない場合がある。オレンジジュースは別に嫌いじゃないけど、そんなに好きでもないし、それほどしょっちゅう飲みたいものではない。
 定食屋などでデフォルトで緑茶やほうじ茶を出すのもやめてほしいと思うようになった。  ただの水よりもいいだろうというサービス精神なのはわかるのだけれど……。できれば全部麦茶にしてもらえるとありがたい。
 回転寿司に行ったときも、粉茶はカフェインが入っているので湯呑みにお湯だけを入れて飲むようにしている。ちょっと味気ないけれど仕方ない。


 そもそも僕らはコーヒーが飲みたいから喫茶店に行くわけじゃない。「ちょっと休憩したい」とか「人に会って話したい」とかいうときにしばらくの時間座ってゆっくりとする空間が欲しくて喫茶店に行くのであって、そこにカフェイン含有の飲み物が付いてくるかどうかはわりとどうでもいいのだ。僕は街なかで休みたくて喫茶店に入るときはいつも「飲み物なんてペットボトル飲料でいいからとりあえず座る場所をくれ」と思いながらカップに入った飲み物に数百円を払っている。
 カフェや喫茶店が本当に売っているのは時間と空間なのに、それがコーヒーやお茶などの飲み物の提供と結びついているのはよく考えると不思議なことだ。 その結びつきには特に必然性がない気がする。
 ネットカフェや漫画喫茶や猫カフェといった店ではさらにカフェや喫茶という言葉が空洞化している。もはや誰もそれらの店に飲み物を期待していない。だけどそれらの店では「なんとなくある程度の時間ゆっくりできる場所」というのを表すためにカフェや喫茶という概念が使われているのだ。
 本当に売っているのは飲料ではなく時間と空間なのだったら、カフェは全て漫画喫茶や猫カフェのように「1時間500円」みたいな時間制の料金のシステムにしたほうが課金方法として正しいのかもしれない。そうすれば「喫茶店でコーヒー1杯で5時間くらい粘るのは許されるのか」みたいなマナー問題も起きなくなるだろう。
 あと、我々が普段「お茶でもしませんか」と言うとき、別にお茶を飲みたいわけではない。「今度飲みに行きましょう」というときも、酒を摂取するのがメインの目的ではない。それらは相手と話したいとか親交を深めたいという気持ちの婉曲表現だ。
「他人とコミュニケーションしたい」という本当は社会的な欲求が、カフェインを含むアッパー系飲料やアルコールというダウナー系飲料を摂取するという原始的な精神変容行為と結びついているのは面白い、と改めて思うようになった。ドラッグと社会の共犯関係という感じがする。 

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