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教養としての仏教入門

2016.11.23 公開 ツイート

第2回 「如来」と「菩薩」の違いとは?

「如来」は究極の大先輩、「菩薩」は面倒見のいい先輩 中村圭志

日本人にとって「縁起」「他力本願」「煩悩」という身近な言葉は、みな仏教の言葉です。多くの家には仏壇があり、お盆になると帰省してご先祖様の墓参りをし、人が死ぬと仏式で葬式をあげる習慣があります。日本人は仏教でてきているといってもいいかもしれません。

しかし、私たちの多くは毎日お寺に行ったり、念仏を唱えたりはしません。では、仏教とは何なのか……。

教養としての仏教入門』の著者で、さまざまな宗教を平易に説くことで定評のある宗教研究者の中村圭志さんが、日本人なら耳にしたことがあるキーワードを軸に仏教を解説。本書より、一部を抜粋してお届けいたします。

如来 究極の大先輩

最初、仏教では開祖の釈迦のみを「ブッダ」として崇め奉っていた。ブッダとは悟った存在である。そうした悟った存在は釈迦の他にも無数にあると想像されるようになり、やがて大勢のブッダを拝むようになった。

次いでブッダの候補生のような存在である菩薩、呪文のパワーの化身としての明王、ヒンドゥー教の神々にあたる天なども拝むようになった。いずれも瞑想の中でリアルな存在として現れ、修行を助けてくれる霊的な存在である。

このブッダ、菩薩、明王、天が大乗仏教とくに密教の「ほとけたち」の基本的カテゴリーである。このうちブッダは礼拝の対象としては──あるいは仏像の分類法としては──如来と呼ばれることが多い。だからここでも如来(=ブッダ)、菩薩、明王、天の四部として説明しよう。

如来(タターガタ)はブッダ(仏陀、仏)の異名だ。インド人は修行を極めた存在をブッダと呼んだりタターガタと呼んだりした。語源的には、ブッダすなわち仏陀は「目覚めた者」、タターガタすなわち如来は「(ある境地まで)やって来た人」という意味である。

如来は修行を極めた存在である。人間はすべて修行の途上にあるとすれば、如来は修行世界の究極の大先輩だ。仏像においては、この究極の大先輩は、金ピカに輝く存在として造形される。しかも頭髪はパンチ状態である(このくるくる巻いた髪の塊を螺ら髪ほつという)。眉間には毛が螺旋状に生えている。修行者は瞑想の中で、如来が白びやく毫ごうからビームを飛ばして空間に映画のようなビジョンを映し出す姿を思い描いた。

如来は智ち慧えと慈悲を無限にもち、神通力ももっているとされる。

大乗仏教の世界観によれば、宇宙中に無数の如来がいる。宇宙中の生物(衆生)はそれぞれ身近な如来のパワーを借りて自らの修行の助けとするのだ。ちょうどジャングルの大木がその巨大な傘の下で無数の植物を養っているように、如来もまた無数の衆生をその精神的な傘の下で養っている。そして今は小さい草木が将来は新たに巨木として育っていくかもしれない。こんなエコロジカルなイメージで、如来と衆生の関係をイメージしてほしい。

代表的な五つの如来

如来は無数に存在するが、寺院の本尊として造形されているのは、いくつかの有名な如来に限られている。

釈迦如来(法隆寺)──斑鳩いかるがの里にある法隆寺の金堂中央には、開祖のブッダである釈迦如来の像が安置されている。日本仏像史において古い時代に属するものである。

薬師如来(薬師寺)──奈良盆地を北上して薬師寺に行くと、そこに鎮座しているのは寺名のもとになった薬師如来である。釈迦の教えが医者の処方にたとえられ、この比喩から薬のカミサマとしてのブッダが生まれた。

毘び盧る遮しや那な如来(東大寺)──次に東に向かって東大寺の大仏殿に入る。このどでかい如来は毘盧遮那如来という悟りの広大な宇宙を象徴するブッダである。

大日如来(東寺)──北上して京都の東寺に向かう。金堂の本尊はこれまた薬師如来であるが、講堂に安置されているのは大日如来である。これは密教の曼荼羅の中央に描かれる如来であり、東大寺の毘盧遮那如来と本質を一にする。

阿弥陀如来(本願寺)──そしてJRの駅を過ぎて東西の本願寺に行くと、信仰対象は阿弥陀如来である。阿弥陀は極楽と呼ばれるユートピアの主として有名なブッダだ。阿弥陀と言えば、東大寺の大仏と並んで有名なもう一体の大仏、鎌倉の大仏もまた阿弥陀である。もとは建物があったのだが、焼け落ちてからはずっと露天で瞑想を続けていらっしゃる。

菩薩 面倒見のいい大先輩

如来すなわち仏が修行の完成者だとすると、菩薩というのは修行途上の存在のことである。修行の中身には、他の人間や生き物たちの救済活動も含まれる。自ら修行をしながら人々を助けて回っている奇特なヒーローが菩薩である。

言葉の説明をすると、菩薩とは菩ぼ提だい薩さつ埵たの略であり、これはボーディサットヴァの音訳である。「悟りに向かう存在」といった意味のサンスクリット語だ。

広義では、あなたでも私でも、「ブッダを目指して修行しよう!」と決意した者は、みな菩薩ということになる。法華経によればあらゆる生き物はブッダになることが約束されており、そういう意味ではあらゆる生き物は潜在的に菩薩である。

しかし像として刻まれて拝まれるほどの菩薩は、やはりもっとステージの高い聖者のような存在だ。観音菩薩、弥み勒ろく菩薩、文殊菩薩、地蔵菩薩といったよく名前の知られた菩薩は、みなスーパーマン並みのレベルに達した存在である。

 

観音菩薩──京都の清水寺や東京浅草の浅草寺の本尊は観音菩薩である。観音はさまざまな姿で我々迷える衆生を救ってくれる有難い菩薩だ。手が千本あったり(千手観音)、顔が十一もあったり(十一面観音)するのは、救いの「手段」をたくさん講じていることの象徴だ。

弥勒菩薩──京都の広隆寺や斑鳩の中宮寺は、神秘的な弥勒菩薩の像があることで有名だ。もっとも、中宮寺の寺伝ではこれを観音菩薩としている(本来は弥勒であったという)。弥勒は現在天上にいて将来救世主として地上に現れるために待機しているという。

文殊菩薩──「三人寄れば文殊の知恵」で有名な文殊菩薩は、知恵に秀でた菩薩である。仏像としては、たとえば先ほど見た法隆寺の金堂に、釈迦如来像の脇侍として普賢菩薩とともに鎮座している。

地蔵菩薩──菩薩で最もなじみ深いのは、なんといっても地蔵菩薩だろう。これは輪廻のどんな境遇に生まれた者でも救おうと頑張っている菩薩である。とくに地獄に堕ちた者にはとても有難い菩薩だ。お地蔵さんの像は全国の路上どこにでもある。また、現代になって中絶した赤ん坊のための水子地蔵の信仰が広まった。

他にも無数の菩薩が存在しているのだが、これくらいにしておこう。

如来が修行世界の超大先輩だとすれば、菩薩はそれに次ぐ大先輩である。ある意味で如来よりも菩薩のほうが有難い先輩だ。というのは、徳の高いスーパー菩薩たちは、自分自身が悟りすまして完全な頂点に達するのを諦めてまでも、人々の救いのために奔走しているからである。いわば社長にならずに現場で平社員と一緒になって汗水流している部長さんのようなものだ。

大乗仏教では、自分の悟りよりも他人の救いを重んじるという理想をもっているので、信仰や瞑想の世界でも、菩薩の有難みはいや増しに増しているのだ。

関連書籍

中村圭志『教養としての仏教入門 身近な17キーワードから学ぶ』

日本人にとって「縁起」「因果」「他力本願」「輪廻」「煩悩」という身近な言葉は、みな仏教の言葉だ。多くの家には仏壇があり、お盆になると帰省してご先祖様の墓参りをし、人が死ぬと仏式で葬式をあげる習慣がある。日本人は仏教でできているのだ。しかし、私たちの多くは毎日お寺に行ったり念仏を唱えたりはしない。では、仏教とは何か――。宗教を平易に説くことで定評のある著者が、日本人なら耳にしたことのあるキーワードを軸に仏教を分かりやすく解説。仏教の歴史、宗派の違い、一神教との比較など、基礎知識を網羅できる一冊。

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中村圭志

1958年生まれ。北海道小樽市出身。宗教研究者、翻訳家、昭和女子大学非常勤講師。北海道大学文学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学(宗教学・宗教史学)。著書に、『教養としての宗教入門 基礎から学べる信仰と文化』(中公新書)、『図解 世界5大宗教全史』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)などがある。

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