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2016.11.18

「私が手放す」という錯覚

小池 龍之介

「私が手放す」という錯覚

 ある日、坐禅会にいらしている生徒さんから、私の法話について質問がありました。「つまり、欲望を手放せということでしょうか?」と。

 答えは、「yesでもなく、noでもないですねぇ」というものなのです。初学者向けにはひとまず「yes」と答えて、それが有用な場合もあるのですけれども、究極の次元では、そのように考えることにより見失うものがあります。

 究極の次元というのは他でもない、この連載で度々述べてきた、無我や空や縁起の観察のことです。この心は、何らかの現象に接触すると、即座にドミノ倒しのごとく、過去のパターンに従って自動反応することを、いろいろと検討してまいりましたね。

 ――それゆえ、あらゆる心理反応は、単なるドミノ倒し的な因果法則に従って、刺激の入力 → 心理反応の出力 → それが新たな入力になり → 次の出力……と延々と勝手に続くだけのものであって、「それを私がやっている」とは言えないし、「それが私である」とも言えない、と。

 坐禅瞑想中、様々に手を替え品を替え現れてくる、変幻自在な考えたちや、あるいは目の前に見える画像たちを、ひたすら何の判断も入れずにほや~んと心の鏡に映していると、すべての考えが、ただの自動出力にすぎず、まずは、「私」なんて完全に置いてけぼりであると感じられてくるものです(本当は、後に記すように、置いてけぼりも何も、「私」は存在しないので、誰も置いてけぼりになっていないのですけれどね)。

 差し当たってのポイントは、「この流れてゆくだけの、刺激 → 出力のドミノ倒しの連鎖の中に私なんてどこにも見出せないや」という感じもまた、「ドミノ倒しに気づく」という入力への出力にすぎないと、気づきを保ち、思考の中にズボッと同調しないことです。さもないとすぐにこの心は、「私なんてどこにも見出せないや」と自動で生じたにすぎない考えを、私が私の意思で思っていると思い込み、「私」という錯覚を生み出すのですから。

 そうしたことに気づき始めますと、「これすらも私じゃないのか」とか「たしかに無我だなあ」とか、「執着が取れてきて楽だなあ」といった感じが、言葉を伴った思考ないし、言葉抜きの気分のようなものとして、生じてきがちなものです。

 が、もちろん、それらも、直前の洞察による刺激入力への出力として自動生起しただけで、「これも私ではない」「私のものではない」と、ありのままに、ただ、因果の縁起に従って生じただけのものとして、その気分の中に「私がいる感」みたいなものを生じさせずに、ただ、「そういう気分が勝手に生じているようだ」と気づいていながら、その気分に同調しないままにしておくのが秘訣です。

 さらには「私のものではない」と見ようとする気分のようなものすら、「そのように見るのが良かろう」と過去に納得が生じた結果として、そのタイミングに自動生成してきますが、それも「私」ではない。ですから、その気分にも同調しないで、ほや~んと、放っておくのです。

 そうして、あらゆる思考、気分、情緒、解釈、感覚などが、目の前をただズラズラーッと、勝手にやって来て勝手に流れ去ってゆくのに対して、マインドフルネスと、ホヤーン、の無重力感を保ち続けるなら、あらゆる現象が、心に引っかかりを持たないままに現れては、洗われていきます。消滅してゆきます。

 面白いことに、そうして洗い流されてゆくサラサラした速度は、対象にちょっとでも同調したり否定したりする力を加えると、一挙に鈍って、軽やかさが失われむしろ、引っかかりはじめます。

 たとえば優越感を感じているイメージが生じたとき、「あー、いかんな、手放さねば」とか「離れなければ」と思ったとしましょう。すると、優越感に対して否定的なエネルギーを向けることにより、心がありのままに肯定も否定もない無重力の、智慧の空間であることを止めて、引っかかりを作ることになるのです。

 あるいはもちろん、優越感に同調して引っかかりを作っても同じです。思うにこの根本原因は、自動反応にすぎないものの中に「これこそが私だ」感を見出しているせいです。

「この優越感は私が作った、私のもので、これが私だ」と錯覚し、幻を信じているせいで、それを喜んだり、あるいは「自分がこんな感情を持つなんてけしからん」と、否定したりする、ということですね。

 けれども、それらは気づきを深めてゆくなら、元々、私のものでもないし、私ではないのです。それを自分のものだと錯覚したうえで「手放そう」「手放したい」とどれだけ励んでも、根本が勘違いなので、うまくゆかないうえに、手放そうとしている感覚の中に、「これが私だ」を見出して引っかかるでしょう。

 そう、「欲望を手放すのですか?」という冒頭の話に戻ってみます。もう、お分かりですね。手放そうという否定の力を加えているうちは、ありのままに映し出す無重力のサラサラ状態はいつまで経っても分からず、それらのどこにも「私」がいないという無我のことも、体感できないことでしょう。

 ええ、究極のことを申すなら、元々、それらは全て単なるドミノ倒しであって私ではないし、どこにも「私」など見出せないので、元々、欲望も私のものではないのです。

 私のものではないものを、「手放す」というのは、何だか、おかしな感じがしますでしょう? 「私の」だという勘違いを前提にしないと、「手放す」という観念は出てこないのですから。ですから「手放す」というよりは、元々自分のでないから、厳密には手放すことすらできず、同調するに値しないし、拒絶するにすら値しないなあ、ただ遠い世界の出来事のように見送って洗い流しているしかないなあ、と気づくのが、肝要なこと。

 そのことを、徹底した修行によって認識し続けることで、自然に、欲望が「私」でも「私のもの」でもないことが体感され、興味が色褪せて、剥がれ落ちてゆくのが肝なのです。それすらも、そういう因果律に従って、勝手に、です。

 どこにも、私は、いない。何と、安楽な、世界。

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