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2016.10.03

裁くこと、同情すること、許すこと

小池 龍之介

裁くこと、同情すること、許すこと

前回は「縁起」の話を記しまして、嫌なことをする人は因果律のプログラムに従って否応なくそうせざるを得ないのだし、好もしいことをする人すら実は、否応なくそうせざるを得ないのだと、申しました。

 その道理がわかればわかるほど、特定の「間違った人」を憎み続ける力は弱まり、特定の「好もしい人」をえこひいきし愛する、という力もいくらか弱まります。

「間違った人」を憎むということでふと思い当たりますのは、犯罪者に対して、被害者やその家族、ないし第三者たる社会一般が抱く感情です。

 しばしば、「こんな酷いことをしたのだから、一生許しません」ということが言われたりもします。犯罪者が意固地であって、謝罪すらせずに自己正当化していようものなら、いっそう許せなさや弾劾が強まるものですね。

 けれどもここで一歩立ち停まって、前回記したようにその犯罪者と自分を置き換え、真剣にその人に感情移入してみてください。ポイントは、自分の思想や感情をその人の中に持ちこむのではなく、なるべくそれらを( )に入れ、その人が何を感じ、どんな精神的プログラムに突き動かされているのか、それをイメージして、その中に入ってみるのです。

 そうしてみると、たとえば屈折した自尊心とか、それが満たされないことへの絶望感とか、自尊心を妨害すると感じられる人々への非理性的な憎しみや攻撃性などなどが、ドロドロと渦巻いていて、とっても苦しい状況であるというのが、他人事ではなく、いくらか体感できると思います。

 それらの心の汚れが原因として渦巻いているなら、一定の条件に接触すると―――たとえば他人から軽視されるとか、評価されない場面に立たされるとか、いじめやすそうな相手が目の前に現れるとか―――必然的に心に激痛が走って、何かネガティブな反応や行動に駆り立てられる。そういうことが、すなわち、「この人が望んで起こした」わけではなく否応なく「縁起」したのであって、その人はその餌食になっているだけだということが、明らかに見えてくることでしょう。

 いや、そのような「縁起」が生じたとしても、強い気持ちさえあれば、我慢できるはずだ―――そんなふうにやっぱり非難したくなりますでしょうか。いいえ、その「強い気持ち」とやらを、私たちが幸いにして自らのプログラム=業の集積の中に持っているなら、私たちなら我慢できるでしょうし、それは有難いことです。が、その人にはそのような能力は与えられていません。能力を持っていない人の中に、それを密輸出して持ちこむことはできません。

 そう、その人の中には、そんな好もしいプログラムが組みこまれておらず、だからこそ否応ないのです。組みこまれていないのに「組みこまれているべきだ」となじってもどうにもできません。不条理なことを要求して腹を立てても、それは自分を苦しめることにしかなりません。

「そのような性格になるまで、放置したまま育ってきたのがけしからん」。なるほど、そうも責めたくもなりましょう。けれども、それは因果律を過去に遡るだけのことで、その前も、さらにその前も、ずーっと前も、否応ない刺激の入力と、苦しい縁起があっただけなのです。こうして「ありのまま」見るなら、憎しみよりも、可哀想だという同情心が湧いてきませんでしょうか。

 現在の法律と社会は、ええ、犯罪者を一定の基準に基づいて、裁きはするでしょう。その際に、被告の責任能力を問えるかどうかの重要な判断基準として、当人に自由意志があって、錯乱状態や心神喪失状態でないことが求められるようですね。

 これまでこの連載でさんざん検証してきましたように、思考も行為も縁起であり、それゆえ無我なのですから、「その人の自由意志」なるものは科学的事実とは言えず、単に「比較的に意識が確かである」という程度のことを言っているにすぎないような気がします。それでも人を裁き、刑を課すには、「その人が、その自由意志で、自分で、自分から、やったのだ」という幻(フィクション)が必要になるということなのでしょう。

 裏を返しますと、それが幻であることを見破って生きていられるなら、見破ったその人においては、裁くとか仕返しをするための基盤としての「犯罪者が自由意志でやった」ということが成り立たなくなる以上、恨んだり仕返しをしたりして心がこり固まる必要はなく、相手を許しやすくなります。

 犯罪を行う人についてさらに言えば、その人が謝罪すらできないほど頑なだとしたら、謝罪くらいはせめてできる人と比べて、より一層苦しみの因果律が強固で、地獄の業火に焼かれています。

 もしも、そのようなネガティブな行動や思考パターンをやめよう、と思い始めると、「やめたいはずなのに因果に基づいてやめられない」という事実に直面するはずですが、やめようとすら思えていないせいで、「強制的にそういうふうにさせられている」ということにすら気づけず、今も悲惨、これから先も悲惨なのです。

 ここで誤解のないように申し添えれば、自由意志で犯罪を行ったのではなく、また、自由意志で謝罪しないのではないから、社会や法律による裁きを免除すべきと申しているわけでもありません。

 社会や法律は、粛々と犯罪者を裁くでしょうし、それはある程度、社会ルールの維持のため、必要です。皮肉な申しようをするなら、「裁きにあうかも」という負の刺激が入力されることによって、多くの人が持っている「裁かれたくない」というプログラムが「縁起」し、自動的に、犯罪に手を染めることの抑止力になっているはずだからです。

 ということは同時に、自分が抑止できているからといっても、それは「私の手柄」だと誇れるようなことではなく、ただのシナリオ通りの因果必然ということでもありますね。

 なおもう一つ付言するならば、被害にあった人が、犯罪者を許すべきだ、などと主張したいわけでもなく、ここで述べているのは、「許すなら苦しみから解放される」という法則です。その法則にのっとるかどうかは、各自が判断すること。

 往々にして被害者は、受けた苦しみの激しさゆえに動転していて、事実を観察するのは難しい状態にあるでしょう。私がそうした状況にある人からの相談に立ち合ったなら、苦しさや憎らしさを、話されるであろうままにじっくり聞き、受けとめるところから始めるでしょう。

 ただし、「許すべきだ」と言うことはないのと同時に、「許したほうが、己がこれ以上苦しまずにも済み、さらには犯罪者に心を開いて接することで、もしかすると相手の心をも開かせ得る可能性も少しはある」という宝が、本当はそこに眠っているのだと記して、今回は筆を置きましょう。

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