前回は「縁起」の話を記しまして、嫌なことをする人は因果律のプログラムに従って否応なくそうせざるを得ないのだし、好もしいことをする人すら実は、否応なくそうせざるを得ないのだと、申しました。

 その道理がわかればわかるほど、特定の「間違った人」を憎み続ける力は弱まり、特定の「好もしい人」をえこひいきし愛する、という力もいくらか弱まります。

「間違った人」を憎むということでふと思い当たりますのは、犯罪者に対して、被害者やその家族、ないし第三者たる社会一般が抱く感情です。

 しばしば、「こんな酷いことをしたのだから、一生許しません」ということが言われたりもします。犯罪者が意固地であって、謝罪すらせずに自己正当化していようものなら、いっそう許せなさや弾劾が強まるものですね。

 けれどもここで一歩立ち停まって、前回記したようにその犯罪者と自分を置き換え、真剣にその人に感情移入してみてください。ポイントは、自分の思想や感情をその人の中に持ちこむのではなく、なるべくそれらを( )に入れ、その人が何を感じ、どんな精神的プログラムに突き動かされているのか、それをイメージして、その中に入ってみるのです。

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小池龍之介『解脱入門―ー究極の悟りへの道』

嘘だらけの私。隙あらば自慢する私。怒ってばかりの私。己の内面に目を向けたとき見えてくるのは、そんな醜い私ばかり。でも、そんな「私」というものは、そもそも存在しないのです――その真理に至った著者は、仕事を捨て、住所を捨て、外界との連絡を絶ち、2500年前のインドの修行僧と同じ、野宿の瞑想生活に旅立った。すべての煩悩を滅却した究極の悟り、すなわち「解脱」を目指して。10年以上におよぶ修行の日々から得た気づきと、さらに深い修行に入る覚悟を記した、「小池龍之介」最後の書。