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2016.08.26

世界で一番どうでもいい難問

狗飼 恭子

世界で一番どうでもいい難問

世界で一番どうでもいい質問の一つに、「いくつに見える?」というのがある。
 この質問に真剣に答えてくれるのは、未成年を前にした補導中の教育関係者だけである。
 他の世界で一番どうでもいい質問には、「前髪を切ったほうがいいかな」というものもある。この質問に真剣に答えてくれるのはたぶん、売り出し中のアイドルに聞かれた場合のヘアメイクさんだけであろう。
 つまりそれらは、大多数の人間にとってどうでもいいことだ。いくつに見えようと、前髪が短かろうと長かろうと。本人とって、どれだけ大切な問題だったとしても。
 分かっている。そんなことは充分分かっているのだ。
 重々承知の上で、わたしは悩んでいた。前髪を切るべきか否か。
 今のわたしの前髪は、耳の一番下くらいまで。おでこがしゅっと出ている状態。こんなに長く伸ばしたのは人生で初めてだ。仕事ができる女っぽい前髪で、割と気に入っていた。
 でも、なんだか急に切りたくなった。
 しかし、とわたしは考える。歳を取って急に前髪を短くして、「不思議おばさん」みたいになる人がたまにいる。わたしも、そういう風に見えるのではなかろうか。前髪が長いおかげで、なんとうなく「大人感」を醸し出せているのに、急に若作りな滑稽な人に見えてしまわないだろうか。
 前髪を伸ばしていたのは、およそ七、八年。もう少し伸ばしたら顎までいく。それまで待ってみるのもいいんじゃないのか? 前髪を短くしたら、大嫌いな美容院にこまめに行かなければならなくなるのではないのか? 特に信頼している美容師がいるわけでもないのに、飛び込みで入ったよく知らない人に前髪の行方を任せられるのか? 前髪は人間の第一印象を左右する。失敗したらどうするんだ? また伸ばすのに七年かけるのか? 今の前髪に不満があるわけじゃない。現状維持で何が悪いんだ?
 わたしは葛藤し続けた。数日間も。真剣に。誰かにこの難問の答えを教えて欲しい。それが無理ならせめてアドバイスが欲しい、そう思いながら。でも聞けない。なぜならこれは、世界で一番どうでもいい質問だからだ。
 そしてわたしはついに決心した。やらぬ後悔なら、やる後悔を。
 わたしは美容院の予約をし、はじめて会った男に前髪を託した。「いい感じにして下さい」男は軽く「わっかりましたー」と答えた。
 一時間後、前髪は、わたしの眉上で揃えられていた。最近の若者たちの流行の長さだ。「どうっすか」ちょっとだけ心配そうに美容師の男は言った。「今っぽい感じになったと思うんすけど」
 鏡の中の自分を眺めながら、わたしは「自分ではいい感じだと思います」と答えた。
 男はほっとしたように笑った。わたしも笑った。
 すがすがしい気分だった。わたしはやった。あの難問に一人で立ち向かい、そして答えを出したのだ。切ったのは美容師さんだけれど。
 分かっている。わたし以外の人間にとってどうでも良いのだということを。それでも、わたしの心は満ち足りていたのだ。似合っていようが似合っていまいが、どちらでもいいくらいに。
 あれから数週間たった。「前髪切ったんですね」とは、今のところ誰からも言われていない。
 本当にどうでもいい問題だったのだということを、わたしは今、改めて感じている。

 

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