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2016.06.25

第4回

町職員が掘り起こした戦死者たちの叫びを体験できる文化財へつなぐ

大平 一枝

町職員が掘り起こした戦死者たちの叫びを体験できる文化財へつなぐ<br />

沖縄戦で病院として使われた、沖縄陸軍病院第二外科20号壕。14年かけて日本初の戦争遺跡文化財に指定されたこの壕は、南風原(はえばる)という小さな町の丘の上にある。人口3万7千人の町に、見学者年間2万5千人。何の仕掛けもない、ただひたすら真っ暗闇の湿った壕(ごう)への見学者は、なぜ年々増えているのか。奇跡の戦跡文化財を築いたもうひとりの仕掛け人を追った。


見学者の絶えない施設を支えたもう一人の立役者

20壕入口

 人力で掘った真っ暗な壕に何千という負傷兵が押しこまれ、看護にあたったひめゆり学徒隊の多くが命を落とし、最後は重症患者が青酸カリ入りミルクで自死させられた沖縄陸軍病院南風原壕。開発で戦争の記憶が消えつつある沖縄で、未来を担う子どもたちにこそ真実を伝えたい。血と糞便とウミの匂いが充満した絶望的な闇を体験させることで机上では伝えきれない平和教育を、壕から発信したい。崩壊寸前だった壕に莫大な予算をかけて保存、平和学習施設にした元南風原町町長、金城義夫を突き動かしたのは、「国家を変えるのは教育だ」という強い信念、その一言に尽きる。

 公開から9年。小学生から高齢者、アメリカや韓国、イラク帰還兵など海外からも、見学者が絶えない平和学習施設に築きあげた立役者には、もうひとりいる。彼の右腕となって支えた当時の南風原文化センター館長、大城和喜(67歳)だ。

 壕の公開から遡ること21年前の1986年。南風原町職員で、社会教育主事だった大城和喜は、給食センター跡地の利用について、金城義夫町長の指示のもと、町民と3年間かけて話し合い、図書館、美術館、博物館といった意見に対して粘り強く平和を学習できる文化センターの必要性を説いた。ちなみにこの時点では、壕の保存計画の話は微塵もない。しかしこの文化センターの存在が、のちに文化財指定、陸軍病院第二外科20壕保存・活用の後押しをする大きな役目を果たす。


運動やボランティアだといつか終わる。文化センター長の挑戦

壕内部に残るベッドの杭木

「話し合いに集まった人たちはみな、南風原が好きな気持に変わりありません。隣の那覇のベッドタウンとして急激に人口が増え、都市化し始めて、南風原の個性がちょっとわかりづらくなってるよねってみな感じていた。だから、今の子どもたちも参加できる文化活動の拠点をここで作っていこうと思ったのです。戦争だけじゃなくて伝統芸能やジャズや踊り。いろんなことをみんなで作る場にしようと。過去のものを並べるだけの博物館や資料館じゃ、子どもたちには伝わりませんから」(大城)

 そのなかに、常設展示として陸軍壕内の様子をレプリカで再現。負傷兵が寝たベッドも等身大で作ることに。見学者が歩きながら感じたことを書けるワークシートなど、企画・運営に関するユニークな提案を積み上げた。

文化センターの常設展示。南風原の戦没者と戦争遺品。南風原町は人口の半分が戦死ししている(沖縄全体では県民の4分1が死亡)

 はたして1989年、南風原町文化センターが開館。文化センター係長の大城は活動の中心的人物となった。彼はじつはその前から、高校教師らとともに南風原町の戦争体験聞き取り調査を行っていた。

「それまで南風原には、戦争の記録がなかったのです。単なる体験談などの作文ならありましたが、それは南風原であった戦争のすべてを記録していることはならない。文章を書くのが好きだったり、選ばれたうまい人しか書かないですから。僕は戦争を体験した普通のおじいさん、おばあさん、全員の声を聞くべきだと思いました。ふつうは戦争調査というと大学などに委託しますが、それはやめようと。地元の人が自分の地元の人に聞く。すると体験が受け継がれる。報告書などの印刷物を作るのが目的ではなく、地域の人が調査すること自体を目的の一つにしようじゃないかと思ったのです」

 高校教諭の吉浜忍さん(現・沖縄国際大教授)に町内の全集落を対象に戦争体験の聞き取り調査を依頼。地元の高校生、主婦、青年ら10~20代の約130人が聞き取りに参加した。よそから来た研究者やマスコミには哀しみの記憶を言いたがらない高齢者も、地元の顔を見知っている孫のような高校生には打ち解け、言葉も滑らかになる。ときにポロポロと涙を流しながらメモや録音をとる高校生を前に、年寄りが身内にも語らなかった壮絶な体験を話しだす光景があちこちでみられた。大城は、聞き取り役のために町の予算で謝礼金を配した。戦争体験を記録する行為は運動やボランティアだけではいけない。町の行政として取り組まねば、継続が難しいという判断からだ。

「地域の若い人が調査すれば、体験が次世代に継承されていきます。それこそが町の財産になる。そのなかで陸軍病院の話が出てきました。当時、50代以下の町民の大半は、黄金森には陸軍病院の壕があって大変なことがあったらしい、くらいしか知りません。子どもに至っては、あそこは美味しいグアバが生(な)るけど、人の血を吸って赤く生長したという噂しか知らない。糞尿や嘔吐の充満した狭い洞穴に60日も押し込められて、食べ物もなくて、切断された手足が転がっていたという生々しい体験談が聞く者にはどれだけ衝撃だったことか」

 13年間。12の全集落の調査を終えるのにかかった歳月である。


土に埋もれた戦死者たちの叫びをとり出す

本土の中高生の修学旅行のコースに組み込まれることが多い。写真は町内の中学生が授業で、解説する平和ガイドを体験

 一介の町の職員と高校教師が旗振り役となって実践された、地元住民どうしで語り継ぐインタビュー収集の手法は、体験世代と戦後世代をつなぎ、語り継がれる側が語り継ぐ側に転換できる画期的な戦争体験調査として、全国の学術機関や資料館、博物館、地方自治体から注目された。住民同士による聞き取り調査が社会的文脈のなかで果たす役割については、現在も立教大学社会学部をはじめとして多方面から研究、分析されている。

 また、調査の記録は、1990年沖縄陸軍病院南風原壕を町文化財に指定した際の重要な資料とエビデンスになったうえ、住民が地域の戦争体験を身近に意識するきっかけにもなった。大城は言う。

「でも、戦跡として壕の保存・公開が実現したのは、戦災調査はひとつのきっかけにすぎません。もっといろんな要因が複合していました。たとえばそのころ、栗原小巻さん主演の映画『ひめゆりの塔』が作られてね。黄金森で撮影していたので町でも話題でした。実際、ひめゆりさんだった方々が大々的にマスコミに出てお話されて注目されていましたし。厚生省による遺骨収集調査では、黄金森から每日のようにライターや靴や手帳などの遺留品が出てきて、そのたびに新聞に載ります。こうして戦跡を保存して活用することは大事なことなんだという意識は、だんだん町民の間に浸透していったのです」

文化センター外観

 とはいえ、文化センターを作った挙句、さらに壕の保存や公開のために膨大な予算をかけることに関しては、反対の声も少なくない。

 同時期、長野の松代大本営跡(終戦間近、皇居、大本営、NHK、政府重要機関の移転を想定し掘られていた地下壕)の保存公開の取り組みが全国的に知られていたが、これは市民運動が母体になっている。わざわざ行政がする必要はないのではとたたかれた。だが大城には確信があった。

「ひめゆりさんのインタビューや遺骨収集の報道を見て、壕を公開したら、必ずマスコミで報道されるだろうと思いました。戦跡を保存し、活用することがいかに大事で意味のあることか多くの人に伝わる。マスコミが後押しになる。世論を作るのも、世論を説得するのも一つの技術だと思います」

 町による日本初の戦争遺跡文化財指定の1990年から17年後、壕は公開された。大城らは、この壕でハンズオン方式の見学を採用した。ハンズオンとは直訳すると「手を置く(触れる)」の意で、中に入って五感を使い、全身で感じ取る体験学習を指す。

「南風原壕は、大勢の人を呼びたくて保存修復したのではありません。数じゃない。感じて欲しいから作った。現場で、五感でこの闇で繰り広げられた恐怖を感じとってほしいから、壕内では海中電灯は消します。この現場がもつ独特の力を肌で感じることは、どんな説明より強い。現場に立たないとわからない、語れないものがありますから」

 工事は、いわば、土に埋もれた叫びを掘り起こす作業でもある。着工前はユタを呼んで浄めた。また毎年鎮魂の歌を三線で謡う。

 魂の叫びは、闇の中で毛穴を通して染みこんでくるような、いわくいいがたい霊気をはらんでいるように私には感じられる。なにもないけれどそこにある。ハンズオンのスタイルは理屈抜きに幼児にも伝わるに違いない。


保存するだけじゃ意味がない。活用せよ

 取材で大城が繰り返したのは次の言葉だった。

「保存するだけじゃ意味が無いんです。どう活用するかが大事。だから行政は作ったら終わりじゃない。そこからがスタートなんです」

 どんな小さな町でも、理念があれば国に先駆けてできることがある。南風原町の一職員の長きに渡る取り組みは、行政のあり方の本質を示唆する。

 では大城をこれほど強くつき動かしたものは何だったのか。話は1972年に遡る。それは本土復帰の年であり、琉球大学法学部の4年生だった。大城はその時の自分をこう表現する。

「まるでチルダイのようだったよ」

 三線線の弦がたれた状態をさす方言らしい。太宰と啄木が好きで、高校から復帰運動に携わっていた。本土に復帰したら基地はなくなるものと信じていた。

「基地が残るなんて、こんなの本当の復帰じゃない。歪んだ復帰だ!」

 もう沖縄にいてもしょうがない、いや生きてる実感がしない。いいようのない虚無感におそわれた。そして2年間失踪する。

(参考)
南風原町立南風原文化センター
沖縄県島尻郡南風原町字喜屋武武257番地
9時~18時/休館水曜日・12月29日~1月3日
(団体以外予約不要)

〈戦争遺跡文化財指定全国第1号〉
沖縄陸軍病院 南風原壕群20号
沖縄県島尻郡南風原町字喜屋武武257番地
見学申込先:南風原町立南風原文化センター(098−889−7399)
(要予約)

 

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