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2016.07.17

身を立て直すことも、旅をする目的(『心がほどける小さな旅』益田ミリ)

吉田 彩乃

身を立て直すことも、旅をする目的(『心がほどける小さな旅』益田ミリ)

『心がほどける小さな旅』益田ミリ
幻冬舎文庫/460円(税別)

 

 本書では、著者が経験した十四の旅のエピソードが綴られている。行き先、目的は様々だが、いずれも旅に出る前と出た後では、著者の心境に変化が起きていることがわかる。たとえば、〈いくつか嫌なことが重なって〉目指した山形では、山寺まで登って新緑の山々を眺め、美味しい山形牛を食べて東京に戻ってくる。そして、〈旅で切り替わる気持ちもある。こうやって、切り替えてやっていくしかないのである。〉〈薄くなっていた心が、ちょっと分厚くなった旅だった〉と、振り返っている。

 遠出をしなくても、普段は行かない場所へ行くことや、非日常に身を置くことも旅の一つだと提示しているのが、競馬場へ行く「桜花賞」や、椿山荘で朝ごはんを食べる「ブレックファスト」の編だ。

 本書を読むと、“旅”という言葉は、「くたびれた心をリセットして、本来の自分を取り戻す効果があるもの」という意味を内包しているのではないかという気がしてくる。もしかすると、行き先、目的はたいして重要ではないのかもしれない。

 私自身にも、そんな体験がある。週刊誌の記者になって二年目、私は精神科で、「抑うつ状態」と診断されて一ヶ月ほど休職した。休みの間は陰鬱な日々を過ごしていたのだが、当時の恋人と神戸に行ったことだけは、特別な出来事として今も記憶に残っている。

 旅は突然始まった。自宅近くの商店街で買い物している時に、彼が急に「今から神戸に行くよ。すぐに支度できる?」と言ったのだ。ちょっとコンビニに寄ろうか、と言うのと同じくらい自然で、気軽な誘い方だった。ただ、神戸には思い当たることがあった。

 付き合い始めて間もない頃、彼が通っていた神戸大学の側に、お気に入りのホットケーキ屋があると聞いていた。注文してから二時間かかることもあり、怒って帰る客がいても、店主は少しも気にしないという。

「とても幸せそうな顔をしながら、一枚一枚じっくり焼いているんだよね。ホットケーキに全てを捧げているって感じで」

 そう嬉しそうに話し、彼はいつか一緒に行こうと言っていたのだ。なぜこのタイミングかは、その時の私にはまったくわからなかったが、突飛な誘いが妙に嬉しくて、私は着替えも持たずに旅に出た。

 新幹線に乗って十九時すぎに新大阪駅に着くと、彼は何も言わずに在来線のホームへ歩いていった。六甲駅で電車を降りて商店街を歩き出してからも、ほとんど言葉を発しなかった。考えてみれば、その頃の私たちはほとんど言葉を交わさなくなっていた。それは私の体調の問題だったのか、二人の関係が終わりかけていたからなのか。黙々と歩く彼の背中だけを見つめながら、私はついていった。商店街を抜け、大通りを渡り、住宅街へ入ると、デジタル時計が埋め込まれた塀を見つけた。あれ、面白いね、と私が指差すと、俺が学生の時にはあんなのなかった、と彼は言った。私はふと、学生の頃に好きだった写真集を思い出した。荒木経惟の『空事』という写真集だ。

「街の風景はどんどん変わっていくから残さなきゃいけないね、と言って作ったんだって。人の想いや、何かを残す仕事っていいよね」

 それから私は、堰を切ったように好きなものや、学生時代に夢中になったことの話をした。久しぶりに饒舌になった私の横で、彼はうん、うん、と相槌を打ち続けた。そして、私が一通り話し終えて黙り込むと、穏やかに言った。

「やっぱり、仕事辞めたほうがいいね」

 休職してから半月、彼が私の仕事について話したのは、その時が初めてだった。不意をつかれて、私は泣き出しそうになった。退職に向けて、誰かに背中を押してもらいたがっていた自分に気がついた。

 ホットケーキ屋は臨時休業だった。連休だというので、ホットケーキを食べないまま翌朝すぐに東京に戻ってきた。

 半月後、私は週刊誌の記者を辞めた。彼は、人に何を言われようとも自分を貫くホットケーキ屋の店主の姿を見て、私に本来の自分を取り戻してほしかったと、神戸へ行った理由を明かした。私には、週刊誌の編集部よりも似合う場所があると言った。

 今思えば、東京から遠く離れた神戸の住宅街で、私は、見失っていた自分を思い出せたのだ。しがらみのある生活圏や職場から物理的に離れたおかげで、自分のあるべき姿を見つめ直すことができた。それは、ホットケーキを食べるよりも有意義なことだったはずだ。

 著者は文庫本版あとがきで、旅の意義は、旅する行為自体にあると記している。曰く、日常の中で〈クサクサすることもカッカすることもあるだろうし、悲しいことも、あるかもしれない〉が、〈打ちひしがれた後、身を立て直す〉ために行くものなのだ。

『ポンツーン』2016年7月号より

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