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2016.04.23

ドラマ原作『火の粉』試し読み(3)

「この野郎、放せっ!畜生!でたらめな裁判やりやがって!」

雫井 脩介

「この野郎、放せっ!畜生!でたらめな裁判やりやがって!」

 

「三原さん、真っ青な顔してましたねえ。ぶっ倒れるかと思いましたよ」

 裁判官室に戻る専用通路の中、中西判事補が口を開いた。声のトーンこそ落としているが、興奮口調である。右陪席も左陪席も判決文の朗読中はやることがないので、法廷の様子をくまなく観察できる。

「倒れたら介抱してあげたかったなあ」

 紀藤判事が冗談混じりに言い、司法修習生たちが軽く笑った。

「野見山さんもいたね。珍しく」

 勲の言葉に、中西は「え?」と呆(ほう)けた顔を見せた。どうやら目に入らなかったらしい。

「いました。いました」紀藤がニヤついた。「彼は反対に真っ赤になってましたよ。あの様子だと、あとで一言言いに来るんじゃないかなあ。あれは来るなあ、たぶん」

「こっちに文句言われたって困るんだけどね」

 自業自得とまでは言わなかったが、勲の言いたい意味はそういうことだった。

「まあでも、正直なところ気を揉みましたけど、つつがなく終わって……」

 紀藤が言い、勲は笑みとともに頷いた。衝撃に違いない判決を受けて、あの場にいた関係者はそれぞれの立場ごとに何らかの思いを抱えたはずだが、法廷が荒れることはなかった。

「淡々、粛々と進めればこうなるんですよ」勲は言いながら、司法修習生らの若い顔に視線を回した。「今日は貴重な経験ですよ。こういうのも裁判官の独立が守られているからこそ可能なんです。自分を信じ、勇気を持って決断することです。裁判官をやってたら一生に一件くらいはこんなケースに出会ってもおかしくない。それを嗅ぎ分ける鼻を身につけておくことなんですね」

 勲が笑顔を見せると、四人の修習生の頭が気持ちよく下がった。

 会心とは言い過ぎかもしれないが、自賛できる裁判だった。いったん自白まで追い込まれた被告への無罪判決などは、法曹界の常識で言えば奇跡に近い。勲自身、これほど思い切った判決は経験になかった。そんな裁判を粛然と終えることができた。長い裁判官生活の総決算とも言える裁判になった。

 専用通路を出て、刑事一部のある北棟に入る。裁判官室は普通、書記官室の奥に位置しているところが多いが、ここの刑事一部は中央通路を挿んで書記官室と裁判官室が分かれている。

「どうですか。懸案の裁判を乗り切ったことですし、今日あたり立川かどこかで」

 紀藤は早くも法衣のボタンを外しながら、勲や中西に顔を向けた。

「昨日の残業はそのためだったんですか?」

 中西が紀藤をからかう。周囲に笑いが洩れる。

 そんなやり取りをしていると、突然、通路を誰かが走ってくるような激しい靴音が聞こえてきた。

「おいっ! 裁判長! おいっ!」

 その声に、勲は足を止めて振り返った。黒いスーツの男が額縁を小脇に抱えて猛然と近づいてくる。池本亨だ。一見して表情に険があるのが分かった。

「あんた、何考えてんだ! おい!」

 池本は荒い息遣いで怒声に似た声を出し、飛びかかってくるような勢いで勲の法衣をぎゅっと掴んだ。石のように硬いこぶしが勲の二の腕に押しつけられた。

「ちょっと、ちょっと」勲と一緒にいた部の者たちがにわかに騒然とし、池本を押さえにかかった。

「この野郎、放せっ! 畜生! でたらめな裁判やりやがって!」

 周りの反応に興奮が増したらしく、池本は憤怒の表情で悪態をついた。

「危ないですよ」勲は冷静を装いながら、自分の法衣を相手の手から引き抜いた。

「おい、待て! 逃げんな、こら!」

「ちょっと、ちょっと」

 再び勲に掴みかかろうとした池本を、部の若い男たちが慌てて引っ張る。それでも前に行こうとする池本は足を滑らせ、床に勢いよく尻もちをついた。

 ガラスの割れる音がして、その場にいる者たちの動きが止まった。

 遺影を納めた額縁のガラスが派手に割れていた。写真ははらりと床に落ち、池本の手には血がにじんでいた。

 池本は床に落ちた写真と自分の手を交互に見て、それから顔を上げて勲を見た。

 勲は池本の尋常でない眼つきに妙な寒さを感じたが、口ではただ同じ台詞(せりふ)を淡白に繰り返しておいた。

「危ないですよ」

 池本はすぐに立ち上がろうとはしなかった。写真を拾い、ガラスのなくなった額に重ねた。眼を激しくしばたたかせながら勲を見る。荒い息を吐きながら、ただ勲を見ている。

「ちょっとガラスを拾って差し上げて」

 勲は書記官と修習生たちに指示した。彼らがガラスを拾い始めるのを見つつ、その場を離れることにした。中西が裁判官室のドアを解錠する。

「危ないですからね」

 勲は最後にもう一度、池本に言い置いて、紀藤たちに守られるように裁判官室へ入った。

「おお、こわ」

 中西は重い空気を一掃するようにわざとらしく身震いしてみせ、ドアを閉めた。

 裁判官室まで乗り込んでこようとする裁判の当事者は決して少なくないが、あれほどの剣幕で来られるとさすがに背筋の冷える思いがする。勲の長い裁判官生活でも掴みかかってこられたのは初めてだ。最低限のセキュリティとして裁判官室は札をかけていないし、案内板にも載せていない。しかし、通路で遭ってしまえばどうしようもない。

「こちらに文句を言われてもねえ」

 勲は先ほどと同じような言葉を呟きながら、ゆっくりと深い息をついた。法衣を脱ぎ、ロッカーに入れる。コーヒーメーカーからカップ&ソーサーに一杯注いで、書類が山と積まれた自分の席に着いた。

 ネクタイを気持ち緩め、机の引き出しからクッキーを出して一つつまんだところで、ドアに軽いノックの音がした。事務官が顔を覗かせる。

「部長、野見山さんが……」

 言い終わらぬうちに、事務官の背後から伸びた手がドアを大きく開け放った。仏頂面の野見山の姿が見えた。腹に一物(いちもつ)抱えているような目が勲を捉えている。

 

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