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2016.02.02

第二章 彦八、江戸へ 〜彦八、江戸へ行く

(22) 江戸での生活を始めた彦八。蚤取りをしながら、辻咄になろうと情報収集を行なう―。

木下 昌輝

(22) 江戸での生活を始めた彦八。蚤取りをしながら、辻咄になろうと情報収集を行なう―。


「おいらは笑話を極める。そう、里乃と大阪城にも約束した」。武士に戻ろうという二代目策伝の前で、そう約束した少年彦八。時は流れ、青年となった彦八は、いよいよ江戸へ。笑いを武器に権力にも屈しなかった伝説の男・米沢彦八の生涯を描いた注目作、第二章!!  毎週火・木・土の週3更新です。

 

第二章 彦八、江戸へ 〜彦八、江戸へ行く
 
(二)

 

「えー、蚤とりぃ、猫の蚤とりぃ」

 粉雪が微かに舞う路地を歩きつつ、彦八は声を上げる。

「ちょっと、兄さん。猫の蚤とりって、いくらなんだい」

 長屋から出てきた中年の女房は、どてらを厚く着込んでいた。袖からのぞく腕を、しきりに掻いている。真っ赤な発疹があちこちにできており、長屋の奥からは「ニャアゴォ」と、猫の鳴き声も聞こえてくる。

 この頃の江戸は犬を飼う習慣はなく、猫が長屋のあらゆるところで飼われていた。火鉢の前や布団の中に一日中いる江戸の猫は、冬でも蚤が多く寄生していて、思っていた以上に声がかかる。

「へえ、三文になります」

「噓でしょ。たったのそれだけで、蚤をとってくれるのかい」

 驚いたのか、女房は何度も聞き返す。三文といえば、茄子三つ分の値である。

「へえ、上方流の蚤取りがありますねん。お湯沸かしてくれたら、すぐにやりまっせ」

 彦八は腰にくくりつけた袋から、茶褐色の毛皮を取り出した。狼の毛皮である。女房が沸かしたお湯に、嫌がる猫を入れて軽く洗う。後は濡れた猫の体を狼の毛皮で包み、彦八が抱くだけである。

 猫の濡れた体を嫌がった蚤が、狼の毛皮に移るのだ。大坂にいる時、蚤取りの親父と仲良くなり、江戸行きの餞別として狼の毛皮をもらったのである。

「へえ、あんた大したもんだねぇ。本当に蚤がいなくなってる。助かるわあ。痒くて、難儀してたんだよ」

 蚤を取り終わった猫の毛を細かく検分しつつ、女房は何度も感心してくれた。

「お前さん、猫の蚤取りするために、はるばる大坂から来たのかい」

 三文を差し出しつつ訊かれたので、「んな、阿呆な」と彦八は吹き出した。

「蚤取りは、とりあえずの日銭稼ぎですわ。ほんまはおいら、辻咄の芸人になりたいんです」

「へえ、確かに近頃はお伽衆みたいに、面白可笑しい咄をしている人は多く見るね。旦那と一緒に、よく聞きにいくよ」

「そう、それ。おばちゃん、おいら、天下人のお伽衆になりたいねん。笑話を極めたろうと思ってな。ほんで、まずは人がいっちゃん多くて、将軍様のいる江戸に来てん」

 女房は口を開けて感心しているが、抱かれている猫はつまらなそうに何度も欠伸をしていた。

「若いのに、奇特なことだねぇ。けど、辻芸にも縄張りとかがあるんじゃないの。大丈夫かい」

「それやったら、心配いらん。知り合いが、一年前から江戸で辻咄してるねん。その人に、最初は面倒見てもらおうと思ってる」

 蚤が体につかないように、慎重に狼の毛皮を袋の中に入れる。

「志賀屋の左衛門、ゆう人やねん。今は江戸の堺町に住んで、辻咄で生活してるねん。おばちゃん、知ってるか」

 難波村にいた漆塗りの跡継ぎである。彦八の喧嘩友達・竹蔵の兄だ。結局、漆塗りの仕事を嫌がり、実家を飛び出した。当初は、役者になるために江戸へと向かったらしいが、辻咄の隆盛で鞍替えしたという。彦八は竹蔵に頼みこんで、志賀屋の左衛門の厄介になることが決まっていた。

「さあ、辻咄で志賀屋左衛門って名前は、聞いたことがないわね」

 考えこむ女房をよそに、毛皮を入れた袋を腰に巻き付ける。

「まあ、これを機会に、『志賀屋左衛門』の名前を覚えたってや。あと、おいらは『米沢彦八』ゆうねん。近々、辻に出て滅茶苦茶笑わせることになってるから、よろしくやで」

 満面の笑みで語りかけた。

「ヨネザワのヒコハチ、米沢の彦八、猫の蚤取ってくれた、米沢の彦八」

 何度も復唱する女房に一礼して、彦八は長屋を後にする。朝から、二十匹ほどの猫の蚤を取っただろうか。上方流の蚤取りの珍奇さもあり、まずまずだ。数をこなしても稼ぎは知れているが、名を売るにはもってこいなので、彦八に不満はない。

「今日はもう、仕舞いにしょーかなー」

 呟きつつ、暢気に歩く。さすがに少し疲れた。大人しい猫ばかりではない。なかには引っ掻く輩もいる。

 まだ慣れぬ町に迷いながら、彦八は進む。彦八の住むのは浅草寺のほど近くにある並木町だが、それよりずっと南の日本橋あたりをうろついている。目指すのは、辻咄のいる辻だ。空を見ると、少し雲が出て来ている。雨混じりの雪が降りそうな気配だ。

 雨が振れば、辻咄は聞けない。芝居小屋のようなところで、笑話をする習慣はないからだ。彦八は足を早めて、短い江戸滞在で見つけた、腕の確かな辻咄がいる辻へと向かった。

「あれ、なんでなん」

 目当ての辻で、彦八は立ち止まった。いつもは厚い人垣ができているはずなのに、今日はまばらだ。目を細めて様子を窺うと、全然見たこともない辻咄が笑話を披露していた。群衆以上にまばらなのは、笑いである。首を傾げた客たちが、次々と離れていく。

 聴衆が十人を割ると、辻咄は諦めて強引に笑話を打ち切った。当然のことながら、投げ銭はほとんど放り込まれない。

「またや、どーゆうことなん」

 彦八は、肩が落ちるほど両腕を重く感じた。

 彦八が江戸に来てひと月ほどになるが、不思議なことがひとつあった。それは、面白い辻咄がいないことだ。町を歩き回って、やっと見つけたと思ったら、何日か後には姿を消してしまっている。

 辻咄が終わった辻に、もう立ち止まる人はいない。野良犬がやってきて、小便を引っ掛けて帰っていく。

「なんで、消えてもうたん。あんなに面白くて、みんな笑ってたやん」

 江戸の町を吹き付ける風は寒さを増し、暮れ六つ(十九時頃)の刻を教える鐘が大きく鳴った。彦八の疑問に答えたわけではないだろうが、袋の中で蚤が跳び跳ねる。

 

 

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