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探検家の日々ボンボン

2013.11.06 公開 ツイート

三大北壁と子供と母と男と女―

金原ひとみ『マザーズ』を読む 角幡唯介

 自分自身の三大北壁の話をしよう。

 私はかつて就職北壁には登ったことがあった。二十七歳から五年間、新聞社で働いていたのである。だがその間も山登りは続けていたので、第一の北壁は完登したと言っていいだろう。第二の結婚北壁に関しては昨年結婚し、その後も山登りどころか数か月の北極探検まで敢行したので、これはもう、かなり美しい新ルートから初登したと言っても過言ではない。といっても私たちの間には、私の山登りが原因で何度もある種の軋轢が生じたので、かなり難しい壁であったことは間違いなかった。そして第三の「出産育児北壁」であるが、実はつい最近、妻の妊娠が判明した。そして二人で近所の産婦人科に行き、正式に妊娠したことが確認されたその日、私はつわりに苦しむ妻を家に置いて知人二人と北アルプスの剱岳に登りに行った。もちろん妻の承諾を得て、笑顔で「気をつけてね、いってらっしゃい」と玄関で手を振ってくれたので、出だしとしてはまずまずだった。そう、私は最後の難壁に最初の一手をかけたところなのである。

 しかしこれからこの壁に様々な難所が待ち受けていることは間違いない。今のところ妻からは「子供が生まれても山に行く気満々だね」と冗談めかしてちくちく言われる程度だが、実際に無事に出産が終わり育児が始まってからが核心だろう。今はまだ機嫌がいいが、女は子供を産んだら変わるというのは、多くの先輩たちが口をそろえる世の真理らしい。その時に山に行きたいと言ったら、一体妻はどういう反応を示すか……。

 しかし『マザーズ』を読んだ今、私にはとっておきの言い訳の切り札がある。「どうして私だけ育児をして、あなたばかり自分の好きな山に行くの?」と詰問されたら、こう言って反論するつもりだ。

「だってしょうがないじゃないか。俺は子供が産みたくても産めないんだから。山に登らないと、生と死の秘密が分からないんだよ」

 だがもしかしたら、さらにこう反論されるかもしれない。

「それは矛盾してない? だって子供は自然そのものなんだから、もう山には行かなくていいはずよ」

 何とか墜落死だけは免れたい。

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探検家の日々ボンボン

冒険も読書も、同じ秘境への旅なのかもしれない――。探検家の、読書という日常のなかの非日常。

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角幡唯介

1976年北海道生まれ。早稲田大学卒、同大探検部OB。『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー渓谷に挑む』で開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞。『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』で講談社ノンフィクション賞を受賞。

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