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探検家の日々ボンボン

2013.11.06 公開 ツイート

三大北壁と子供と母と男と女―

金原ひとみ『マザーズ』を読む 角幡唯介

 就職、結婚、育児。確かにこの三つを乗り越えて登山を続けるのは難しい。私の周りでも多くの者が挫折し山を離れていった。大学で山登りを始めても、そのうちの多くの者はまず就職を機にやめる。就職という壁を乗り越えても次には結婚という壁が待っている。そして結婚という壁の先には育児という壁が立ちはだかる。しかも壁としての難易度は次第に高まるというのがもっぱらの評判だ。まず「就職北壁」が一番登りやすい。なぜならそれは本人のやる気次第でいくらでも乗り越えられるからだ。しかし次の「結婚北壁」となるとそうはいかない。自分の他に妻との関係の問題が加わるので壁ははるかに困難になるし、時には登山自体より高いリスクを背負うこともある。そして最後に控える「出産育児北壁」ともなると、これはもう……私は知らないが、見上げただけで手のつけられない悪相の壁だという噂である。

 その後輩は就職北壁は難なく登り切り登山を続けた。結婚北壁も、奥さんと奥さんの父が同じクライマーだということもあり一家総出で乗り越えた。そしてこれから彼は最難の出産育児北壁に取り付こうとしていた。考えてみれば彼とは一緒に冬の北アルプスで五百メートル近く雪崩に流され、埋没したところを助けてもらったという忘れがたい思い出もあった。がんばれよ。いつかまた戻ってこいよ。私は思わずそう声をかけたくなった。

 それにしてもなぜ山登りを一生続けるのは難しいのだろう。

 就職は分かりやすい。慣れない仕事に忙殺され、毎日残業が続き、上司や取引先との付き合いにも神経をすり減らされる。いくら好きでやっているとはいえ、はっきり言って週末に定期的に山に登るにはかなりのエネルギーが必要だ。それに金もかかる。自家用車を持っているならまだしも、都会に住んでいる新入社員なら電車やバスで登りに行くことが多いだろうから、前日のうちに荷物のパッキングを済ませ、重いザックを背負い、何度も乗り換えや電車待ちを繰り返さなければ山にはたどり着かない。ようやく着いたはいいものの、結局天気が悪くて登れないことも珍しくない。そんなことをするなら、仕事で疲れているのだから休日ぐらい家でゆっくりと休みたい、というのは社会人一年目の心境としてはよく理解できる。

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探検家の日々ボンボン

冒険も読書も、同じ秘境への旅なのかもしれない――。探検家の、読書という日常のなかの非日常。

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角幡唯介

1976年北海道生まれ。早稲田大学卒、同大探検部OB。『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー渓谷に挑む』で開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞。『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』で講談社ノンフィクション賞を受賞。

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