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2015.09.01

昭和15年に完成した
「八紘一宇の塔」とは何か
第3回『八紘一宇』

島田 裕巳

昭和15年に完成した<br />「八紘一宇の塔」とは何か <br />第3回『八紘一宇』

 戦前戦中の日本人を魅了した「八紘一宇」ということばの謎に迫った『八紘一宇 日本全体を突き動かした宗教思想の正体』(島田裕巳)。本書の一部を抜粋し、ご紹介する連載・最終回は「八紘一宇の塔」についてです。
 巨大なあの塔はいつ建てられたのか? 建設を発案したのは誰なのか? 一つの石碑から、知らなかった歴史が浮かび上がります。

 

宮崎市平和台公園の八紘一宇の塔。写真:PIXTA

 宮崎市の八紘一宇の塔と設計者・日名子 実三(ひなご じつぞう)の思想


 三原じゅん子議員の質問に答えた麻生太郎財務大臣は、宮崎県にある「八紘一宇の塔」について言及した。

 たしかに、宮崎県宮崎市の平和台公園には、その塔が建っている。ただし、建てられた当初の正式な名称は、「八紘之基柱」というもので、これは「あめつちのもとはしら」と読む。現在では、「平和の塔」と呼ばれているが、塔の正面には、はっきりと八紘一宇という文字が刻まれており、今でも八紘一宇の塔と呼ぶ人は少なくない。

 現在では、「日本が関わった軍事施設や工場、戦災地、戦争に関連する建造物や事件の跡地などを戦争遺跡」と呼ぶのが一般化しているが、八紘一宇の塔もこの戦争遺跡の一つとしてとらえられている(戦争遺跡保存全国ネットワーク監修『日本の戦争遺跡図鑑』PHP研究所)。

 この八紘一宇の塔自体、さまざまな点で興味深いものがある。

 塔の高さは約37メートルにも及んでおり、巨大である。新緑の季節でも公園に植わっている高い樹々の上にその頭をのぞかせている。工事がはじまったのは、日中戦争がすでにはじまっていた昭和14(1939)年5月20日のことで、完成したのは翌昭和15年11月25日のことだった。この昭和15年は、初代の天皇である神武天皇が即位してから2600年にあたるということで、日本全国では「紀元二千六百年奉祝事業」が営まれ、「~紀元は二千六百年」と巷でさかんにうたわれた。この歌は、奉祝事業の一環として内閣奉祝会と日本放送協会(NHK)が募集した奉祝歌『紀元二千六百年』の一節だった。平和の塔の裏にも「紀元二千六百年」と刻まれている。

 塔の建設を発案したのは、当時の宮崎県知事・相川勝六(あいかわかつろく)で、「八紘一宇の精神を体現した日本一の塔」を建てることが目的とされた。今でこそ高い塔は珍しくないが、この時代、京都東寺や奈良興福寺の五重塔を除けば、高い塔は、高さ約90メートルの神戸タワーや、約64メートルの初代通天閣くらいしかなかった。この二つの塔が鉄塔であるのに対して、八紘一宇の塔は石塔である。石材は当時日本が領土にしていた朝鮮や中国各地から送られてきたものだった。建設された時点で、石塔としては日本一の高さを誇っていた。

 相川知事は、新聞社に依頼し、この塔の設計者を募集した。それに対して、報酬はいっさい要らないと言って応じてきたのが彫刻家の日名子実三(ひなご じつぞう)であった。日名子は、同じ九州の大分県臼杵(うすき)の出身で、東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫刻科塑造教室を首席で卒業した逸材だった。彼は、同じ大分出身の彫刻家・朝倉文夫に師事したが、朝倉の代表作の一つが、かつての東京都庁、現在の東京国際フォーラムに建つ太田道灌(おおたどうかん)像である。

 日名子(ひなご)の代表作は、故郷の臼杵城跡(臼杵公園)に建つ「廃墟の像」と名づけられた彫刻作品だが、今の私たちにとってもっとも馴染みがあるのが、日本サッカー協会のシンボル・マークである。これは、三本足の烏が、そのうちの一本をサッカーボールの上においているデザインになっている。日本サッカー協会が大日本蹴球協会と名乗っていた昭和6年に、これをデザインしたのが日名子だったのである。

 この烏は、「八咫烏(やたがらす)」と呼ばれるものである。八咫烏は、日本の神話である『古事記』や『日本書紀』に登場する想像上の生き物である。『古事記』では、日向(ひゅうが・八紘一宇の塔が建つ現在の宮崎県)を発って、大和(やまと・同奈良県)の征服、いわゆる「神武東征(じんむとうせい)」に向かった神武天皇が熊野(くまの・同和歌山県)から大和へ向かう際に、八咫烏がその道案内をしたとされている。

 この『古事記』の物語を踏まえただけでは、八咫烏(やたがらす)はサッカーとは結びつかない。実は八咫烏は熊野にある三つの神社、熊野三山(熊野本宮〈ほんぐう〉大社、熊野速玉〈はやたま〉大社、熊野那智〈なち〉大社)の祭神の使いとされており、蹴鞠(けまり)の名人であった藤原成道(ふじわらのなりみち)という人物が、技能の向上を願って熊野詣をくり返したことから、熊野の地が蹴鞠と結びつけられるようになり、それで八咫烏がサッカー協会のシンボルに選ばれたわけである。

 八紘一宇の塔の場合にも、それが聳える平和台公園は、神武天皇が東征に出発する前に最初の皇居があったとされる皇宮屋(こぐや)のすぐ北に位置している。皇宮屋のあったとされる場所には、現在、宮崎神宮の摂社、皇宮(こうぐう)神社が建っている。その祭神は神武天皇であり、それは宮崎神宮も同様である。宮崎神宮は、地元では「神武さま」とも呼ばれている。

 こうした点からすると、日名子(ひなご)は、神武天皇への篤い信仰をもっていたことになる。三原議員が引用した「掩八紘而為宇(あめのした おおひて いえとなさむ)」ということばは、『日本書紀』の神武天皇の即位前紀己未年三月丁卯の条にあるもので、「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(なさ)む」と読み下される。八紘とは、中国の思想書『淮南子(えなんじ)』地形訓に出てくることばで、地のはてを意味し、それから転じて天下、全世界を意味するものとなった。したがって、「掩八紘而為宇」は、世界全体をおおって一つの家にするという意味になってくる。その前の部分には、「六合を兼ねて以て都を開き(国のうちを一つにして都を開き)」ということばがあり、全体として国家の統一を宣言した部分としてとらえることができる。

 ただし、神武天皇の時代における国家の範囲は、地域的にかなり限定されたものと考えられる。世界とは言っても、日本以外の地域を含むとは考えられていないはずだ。そもそも、日本と言う場合にも、現在のような国土の範囲ではなく、相当に限定的なものだったことだろう。その点で、この『日本書紀』の記述からだけでは、とても日本の海外進出を正当化することばにはなってこない。また、三原議員は、予算委員会での質問の最後の部分で、八紘一宇を「家族主義」ととらえていたわけだが、それも当たらない。

 


 ことばのもとの意味に、現在の「世界」も「家族主義」も入っていなかったとしたら、いつから戦争のスローガンで使われる意味になったのか……。八紘一宇の謎は、まだまだ続きます。

*この連載は、『八紘一宇 日本全体を突き動かした宗教思想の正体』(島田裕巳著)からの抜粋です。続きは本書をお手にとってご高覧ください。

 

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