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2015.08.24

戦時下を「君が代」はいかに生き延びたか

第2回「君が代」が迎えた敗戦

辻田 真佐憲

第2回「君が代」が迎えた敗戦

1999年の国旗国歌法で正式に「国歌」として認められた「君が代」。実はこの歌は、明治期以降、波乱に満ちた歴史を歩んできました。特に戦争、敗戦、占領によって、扱いは大きく変わりました。日中戦争および太平洋戦争期には、「君が代」は神聖なる天皇讃歌の歌としてアジア太平洋地域に広く君臨。しかし、敗戦を迎えると、「日本国憲法」の精神に反すると批判が湧きあがります。1947年5月3日の「日本国憲法施行記念式典」では、「君が代」の代わりに「われらの日本」が歌われ、天皇退場の時には、米国の行進曲「星条旗よ永遠なれ」が演奏されたといいます。占領下を「君が代」はいかに乗り越えたのでしょうか。 

八月十五日の「君が代」

 太平洋戦争の時代、「君が代」は揺るぎなき日本の国歌として、日本軍と歩みをともにし、日本全土はもとよりアジア太平洋地域でかつてないほど広く歌われた。「君が代」は両脇に準国歌の「愛国行進曲」と「海ゆかば」を侍らせ、後ろに有象無象の「愛国歌」や「国民歌」の類を従えながら、「大東亜共栄圏」の音楽の頂点に君臨した。それは、かつて弱々しくアジアの一隅に生まれたこの歌が、手本とした英米の国歌を打ち払い、誇らしく強者の音楽として振る舞った瞬間に他ならなかった。
 そのことを示すデータがある。日本は、「米英音楽の徹底的駆逐」や「原住民をして日本に親しませる」ことなどを目的に、東南アジアにレコードや楽譜を数度にわたって送った。一九四三(昭和十八)年には、日本蓄音器レコード文化協会が「日本的音楽音盤」四百五十九枚と楽譜三十六曲を送付。また同年、日本音楽文化協会も独自に楽譜を選んで送付した。そのいずれにも「君が代」は含まれていた。
 後者の方は数が少ないので、そこから「大衆歌曲」と「国民歌謡」とされたものをここに引いてみよう。「国民歌謡」は、日本放送協会の音楽番組「国民歌謡」で放送された曲を意味する。

【大衆歌曲】「君が代」「愛国行進曲」「紀元節」「護れ太平洋」「荒城の月」「からたちの花」「待宵草」「曙に立つ」「力だ熱だ」「花と乙女」「みどりの木陰に」「うるはしの朝」「かへり道の歌」「春霞」「太平洋船歌」「乙女進軍」「元気で行かうよ」「さくら咲く国」「丘のそよ風」「蘇州夜曲」「白蘭の歌」「いとしあの星」「支那の夜」「婦人愛国の歌」「露営の歌」「丘を越えて」「天然の美」「聖日本の歌」「大日本行進曲」「湖南の茶摘」「桜花の調べ」「春」「叱られて」「花嫁人形」「あさね」「浜千鳥」「働く力」「感激の合唱」

【国民歌謡】「心のふるさと」「朝」「椰子の実」「夜明の唄」「娘田草船」「かもめ」「利鎌の光」「愛国の花」「若葉の歌」「白百合」「愛馬進軍歌」「新鉄道唱歌」「太平洋行進曲」「くろがねの力」「空の勇士」「母の背は」「暁に祈る」「めんこい子馬」
(『音楽文化新聞』第五十三号、一九四三年七月一日号)

 このように「君が代」は、米英音楽を「大東亜共栄圏」から駆逐する尖兵として、東南アジアに送り出されたのである。
 ところが、その天下は儚いものだった。戦局が悪化するに連れ、「愛国行進曲」は「見よ東条の禿頭」という東条英機首相を揶揄する歌に替え歌され、「海ゆかば」はいつしか玉砕を伝える報道のBGMと化してしまった。
 そして「君が代」にも運命の時が訪れる。一九四五(昭和二十)年八月十五日。終戦を伝える昭和天皇の玉音放送がラジオで流される前後に、「君が代」は厳かに奏でられた。「今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス」という昭和天皇の言葉は、「君が代」にもそのまま当てはまった。
 あれだけ天皇讃歌と仰がれた歌は、かえって占領軍によって問題視され、禁止されてしまうのではないか。「君が代」に大きな危機が訪れた。この苦難をいかに「君が代」は切り抜けたのだろうか。

新憲法の歌と揺らぐ「君が代」の権威

 ところが、蓋を開けてみればまったく現実は違った。占領軍である連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は「君が代」を取り立てて問題にはしなかったのである。学校における「御真影」拝礼や「教育勅語」奉読を「軍国主義的国家主義」として問題視した『米国対日教育使節団報告書』(第一次、一九四六年三月)も、「君が代」の斉唱については歯牙にも掛けなかった。多忙な占領政策の中で、「君が代」はあたかも無視されたかのようだった。
 そのため、一九四六(昭和二十一)年十一月三日に皇居前広場で開かれた、東京都主催の「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」でも、「君が代」はまったく問題なく斉唱された。昭和天皇と香淳皇后が臨席したことといい、吉田茂首相が「天皇陛下万歳」を唱えたことといい、その様子は、あたかも一九四〇(昭和十五)年の「紀元二千六百年式典」の再現のようであった。
 もちろんこれは「君が代」批判がまったくなかったことを意味しない。むしろ、「君が代」に対する批判は他ならぬ日本人から湧き上がった。すなわち、「君が代」は国民主権を原則とする新憲法の精神と矛盾するのではないか、というのである。そのような主張は当時の新聞の社説や投書欄で数多く見ることができる。かつてあれだけ「天皇讃歌」として神聖視されたことがやはり足枷となってしまったのだ。
 また、GHQの命令を待つまでもなく、学校からも「君が代」の斉唱は事実上姿を消していった。一九四六年十月の「国民学校令施行規則」の一部改正により、長らく続いた祝祭日の儀式が行われなくなったからである。

「国民愛唱の歌」募集記事。 「朝日新聞」1948年8月11日朝刊2面。

 この動きに沿うように、この頃新憲法を記念する歌が多く作られた。例えば、憲法普及会が制作した新憲法施行記念国民歌「われらの日本」(土岐善麿作詞、信時潔作曲)。この歌は、翌年五月三日に政府が主催し、昭和天皇も臨席した「日本国憲法施行記念式典」で「君が代」の代わりに歌われた。

平和のひかり 天に満ち 正義のちから 地にわくや
われら自由の 民として 新たなる日を 望みつつ
世界の前に 今ぞ起つ                 (全三番のうち一番)

 ちなみにこの式典では、天皇退場の時に「君が代」ではなく、米国の行進曲「星条旗よ永遠なれ」が演奏されたという。
 また、一九四六年には毎日新聞社が文部省の後援と日本放送協会の協賛を受けて募集・制作した新憲法公布記念国民歌「新日本の歌」(土井一郎作詞、福沢真人作曲)が生まれ、一九四八(昭和二十三)年には朝日新聞社と民主政治教育連盟が日本放送協会の後援を受けて募集・制作した国民愛唱の歌「こゝろの青空」(阿部勇作詞、東辰三作曲)が生まれた。前者はコロムビアより、後者はビクターより、それぞれレコード化されるなどして普及が図られた。

「新日本の歌」
海原の みどりのなかに とこしへの 平和もとめて
あたらしき 国生れたり 若き力 われらもろ手に
共に起つ わが祖国                  (全三番のうち一番)

「こゝろの青空」
わきたつ わきたつ 青雲に ぐんぐん 夜明けの 日がのぼる
さやかな 明るい あの光 みんなで 仰いで つくろうよ
楽しい わが家を この街を              (全三番のうち一番)

 このような歌は戦時下の「愛国歌」や「国民歌」の模造品ともいえる。携わった組織や人物を見てもほとんど代わり映えしない。ただ、かつての「愛国歌」「国民歌」と大きく違うところは、頂点に君臨した「君が代」の権威自体が揺らいでいることだった。もし「君が代」が徹底的に批判されれば、これらの憲法の歌が下克上して「君が代」に取って代わる可能性もあった。その意味で、戦時下の「国歌、準国歌、愛国歌・国民歌」というヒエラルキーは風前のともしびだった。

(最終回は9月3日公開予定です)

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