毎日を1%ずつ新しく生きる! 刺激と感動のマガジン&ストア

★がついた記事は無料会員限定

2015.12.02

大藪春彦賞作家が描く、戦慄の犯罪小説!!

試し読み連載(5)
――落ち着いて。
自分を取り戻さなければ。

柚月 裕子

試し読み連載(5)<br />――落ち着いて。<br />自分を取り戻さなければ。

【再掲】注目の長篇ミステリー『ウツボカズラの甘い息』(柚月裕子著)。ミステリー界期待の星として、大注目の柚月さんが今回挑んだのは、女性たちの抱える闇、欲望をリアルに描いた犯罪小説。そこで作品冒頭の50ページまでを試し読み連載(全六回)にて掲載!! 日常生活における人間の心の脆さを覗いてみて下さい。〈著者の柚月裕子さんが気になった方はこちら→(ほんのひきだし http://hon-hikidashi.jp/enjoy/6964/)〉

連載第五回となる今回は、文絵は唯一の趣味である懸賞で、ディナーショーのチケットを手に入れて――。

 

「ママ!」
 美咲の呼ぶ声に、遠のいていた文絵の思考が戻ってくる。
 ゆっくり瞼を開けると、玄関で鏡の前に立っている自分がいた。
「ママったら! のどがかわいた!」
 美咲の声が、水のなかで聞いているようにくぐもっている。
 壁をつたいながら、リビングへ向かう。
 途中、廊下の隅に置いていた木彫りの象が、倒れていることに気がついた。夫が社員旅行で沖縄に行ったときに、買ってきた土産だ。なにかの弾みで倒れたのだろう。
 床にしゃがみ、倒れている象をもとに戻す。重さも感じなければ、触れた木の感触もない。五感が失われている。
 ——落ち着いて。自分を取り戻さなければ。
 通院している心療内科の医師から教わった、自己催眠の方法を思い出す。その場に座ると、ゆっくりと目を閉じて、深呼吸をする。薄暗い空間を思い浮かべ、頭のなかの階段をゆっくりと下りていく。
 開けたドアの先は、空だった。真っ白い雲が、一面に広がっている。
 雲の上に横たわり、目を閉じる。ゆったりと流れていく雲に合わせて、深く呼吸をする。
 しばらくそうしていると動悸が収まり、ゆったりとした気分になってきた。
「ママ、はやくきて!」
 また美咲の声がした。だが、先ほどとは違う。鮮明に耳に響いてくる。麻痺していた五感が戻ってきたのだ。
 ——自分に戻れそう。
 入ってきたドアを出て、一段ずつ階段を上る。上りきって目を開けると、周りを覆っていた靄はすっかりなくなっていた。膝に床の冷たさが伝わってくる。自分を取り戻したのだ。
「ママったら!」
 美咲の呼ぶ声に、文絵ははっきりと答えた。
「いま行く」

 美咲にジュースを出して、夕飯の支度にとりかかろうとしたとき、玄関のチャイムが鳴った。
 誰だろう。訪問販売だろうか。
 文絵は玄関に向かうと、ドアの覗き穴から外を見た。ドアの外には宅配便のジャンパーを着た男性が立っていた。
 届けものだ。
 文絵は玄関のドアを開けた。宅配業者の男性は、社名を名乗ると文絵に一通の封筒を差し出した。
「高村さんですね。お届けものです。サインを貰えますか」
 文絵は下駄箱の上に常に置いてあるボールペンを手に取ると、送り状の受取人の箇所に手早く苗字を書いた。
 キッチンに戻ると、ダイニングの椅子に腰かけて、封筒の差出人を見た。アサヒメイク株式会社プレゼント係、とある。差出人名に覚えはない。
 醜く太り、人との関わりを避けるようになった文絵は、ひとつの趣味を見つけた。懸賞だ。
 懸賞にはまったきっかけは、たまたま出した、スナック菓子のプレゼントに当たったことだった。菓子のパッケージについている点数を集めて応募すると、スナック菓子のキャラクターがプリントされているブランケットがもらえる。ブランケットの真ん中にプリントされているうさぎが、美樹と美咲が好きなキャラクターで、欲しいとせがまれてのことだった。
 当選したブランケットを見せると、美樹と美咲は歓声をあげて喜んだ。
 文絵に抱きつき、文絵を褒め称えた。
「ママ、すごい! ありがとう!」
 めっきり笑わなくなった敏行も、喜ぶふたりの娘の姿に心が和んだのだろう。めずらしく楽しそうに笑った。
 文絵の気持ちは、久しぶりに高まった。誰にも会わず、家族が喜び、得をする。内にこもる文絵は、自分にぴったりの楽しみを見つけた。
 それから文絵は、懸賞にのめり込んだ。賞品などなんでもよかった。食品、雑貨、商品券、手当たり次第に、はがきやネットを使って応募した。たくさん出しているので、どれに応募したかなど、いちいち覚えていない。
 文絵は封筒を開けた。なかにはディナーショーのチケットが入っていた。あまり芸能界に興味がない文絵でも知っている、人気男性タレントのものだった。
 場所は都内の一流ホテル。日時は二週間後の週末で、夕方の六時からとなっていた。
 有名タレントの歌とトークを楽しみながら、一流シェフが作る料理を食べる。こんな機会はめったにない。外に出ることが億劫な文絵でも、このチケットには心が揺れた。
 その日の夜、勤めから帰ってきた敏行に相談した。
「どうしよう」
「いいじゃないか、行ってこいよ」
 敏行は文絵に、行くことを勧めた。子供たちは自分が見ているという。ずっと引きこもっている文絵を、心配してのことだろう。新婚の頃とは違い、いまでは嫉妬もしなくなった。太ったいまの文絵に、言い寄ってくる男などいないと安心しきっている。
「ただで楽しめて、美味い料理が食べられるんだ。行かなきゃもったいないだろう」
 ただ、という言葉が文絵を刺激した。そのひと言で、文絵の気持ちは決まった。

 ディナーショー当日、文絵は美咲の入園式のときに着た、3Lのスーツで出掛けた。三年前に買った服で、スカートの丈が長く、型は時代遅れになっていた。だが、美咲の入園式のときに一度着ただけで、まったく傷みはない。それに、このスーツ以外、ディナーショーに着ていけるような洒落た洋服は、持ち合わせていなかった。
 いつもは髪も適当だし、化粧もしない。だが、この日は違った。三カ月も美容院に行っていない髪を丁寧にブローし、化粧もした。身支度を終えた自分を鏡で見ると、そこには、肥ってはいるがいつもより華やいだ自分がいた。
 文絵は腕時計を見た。四時半。
 開場は五時半で、開演は六時だ。
 文絵の自宅がある松戸市から、会場となる都内のホテルまで、電車を乗り継ぎ一時間ほどかかる。文絵は開演ぎりぎりにホテルに着くように計算して、家を出た。
 案内状に書かれていた説明では、ショーの席は指定席A席と自由席のB席に分かれているとのことだった。文絵が当たったのはB席だ。席は早い者勝ちだ。早く会場に入ったほうが、ステージに近い席がとれる。ホテルのロビーは、いい席をとろうとするB席の客でごったがえしているだろう。
 文絵はそれが嫌だった。
 ショーには約二百人の客が集まる。その半分がB席だとしたら、およそ百人もの人間が、ロビーを埋め尽くしているのだ。早く会場に着いても、話し相手になる連れがいるなら、時間も潰せる。文絵に、そんな相手はいない。
 加えて、文絵はディナーショーなど、一度も行ったことがなかった。場違いな空間で時間を持て余すなど、文絵にとっては拷問に近い。そんな辛い思いをしてまで、男性タレントを近くで観たいとは思わなかった。会場の雰囲気を楽しみ、口にしたこともない一流の料理が食べられればそれでよかった。
 ホテルに着いたのは、開演十分前だった。ロビーには、文絵と同じくいましがた着いたばかりと思われる客が数人と、ホテルの従業員がいるだけだった。ほとんどの客は、すでに席に着いているらしい。
 受付で制服姿の女性にチケットを渡し、会場へ入る。
 防音が施された分厚い扉を開けた文絵は、思わず臆した。
 なかは、八人掛けの円卓がずらりと並び、大勢の人の熱気に溢れていた。天井からは豪華なシャンデリアがぶら下がり、いくつものスポットライトがそこかしこを照らしている。
 客のほとんどは女性だった。華やかなデザインのワンピースやスーツに身を包み、めかし込んでいる。
 文絵はB席の空いている椅子を探した。当然、ステージに近い席はすべて埋まっている。文絵が見つけた空いている席は、会場の一番後ろに設らえられたテーブルだった。八人掛けの席は、文絵が座ってもまだふたり分、空いている。どうやらこのテーブルが、一番のハズレらしい。
 文絵が席に着くと同時に、会場の照明が落ちた。
 開演だ。
 司会役の女性が、ステージの隅で、集まった客への礼とホストのタレントの紹介を行った。ショーは、前半がディナータイム。十分の休憩を挟んで、タレントのショータイムという構成だった。
 今夜のディナーショーの流れを話し終えると、司会役の女性は「では、しばらくのあいだ、当ホテル自慢のシェフが腕を振るったフランス料理をご堪能ください」と言ってマイクを置いた。
 いつのまにそばにいたのか、ホテルの従業員が目の前のグラスにワインを注いだ。ほどなく、前菜が運ばれてくる。
 歓談がはじまる。
 会場内を、楽しげな話し声と笑いが飛び交う。文絵と同じテーブルに座ったふたりの女性は連れらしく、運ばれてくる料理を口にしながら、笑顔で会話を楽しんでいる。
 誰も文絵に話しかけることもなければ、気にかける者もいない。見る人には淋しげに映るかもしれないが、文絵にとっては逆だった。誰の目を気にする必要もなく、こんどいつ口にできるかもわからない豪華な料理に舌鼓を打つ。
 ディナータイムが終わり、休憩のあとにショータイムがはじまった。
 ステージにスポットライトが当たり、霧のようなスモークのなかから、男性タレントがあらわれた。客席から歓声があがる。男性タレントはヒット曲を数曲歌いあげたあと、ジョークを交えた軽妙なトークを披露し、会場の笑いを誘った。最後はステージから下り、バラード調の曲を歌いながら各テーブルをまわる。男性タレントは客が求める握手に、にこやかに応じた。
 すべての曲を歌い終えると、男性タレントは会場に来てくれた礼を述べ、割れるような拍手のなか、ステージから姿を消した。
 

※本記事は『ウツボカズラの甘い息』(柚月裕子著)の全464ページ中50ページを全六回に分けて掲載した試し読みページです。次回(最終回)更新は6月22日(月)を予定しています。

★がついた記事は無料会員限定

関連書籍

柚月裕子『ウツボカズラの甘い息』
→書籍の購入はこちら(Amazon)

 

記事へのコメント コメントする

コメントを書く

コメントの書き込みは、会員登録とログインをされてからご利用ください

おすすめの商品
  • ピクシブ文芸、はじまりました!
  • 文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞受賞作!
  • 無理しないけど、諦めない、自分の磨き方
  • 時短、シンプル、ナチュラルでハッピーになれる!
  • ビジネスパーソンのためのマーケティング・バイブル。
  • 有名料理ブロガー4名が同じテーマでお弁当を競作!
  • ドラマこそ、今を映すジャーナリズム!
  • 砂の塔 ~知りすぎた隣人[上]
  • 小林賢太郎作品一挙電子化!
  • あなたがたった一人のヒーローになるためには?
朝礼ざんまい詳細・購入ページへ(Amazon)
文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞受賞作!
ピクシブ文芸、はじまりました!
エキサイトeブックス
今だけ!プレゼント情報
かけこみ人生相談 お悩み募集中!