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2015.11.18

大藪春彦賞作家が描く、戦慄の犯罪小説

試し読み連載(1)
「薬はいつもの安定剤と
睡眠剤を出しておきますね」

柚月 裕子

試し読み連載(1)<br />「薬はいつもの安定剤と<br />睡眠剤を出しておきますね」

【再掲】
注目の波がひたひたと押し寄せている長篇ミステリー『ウツボカズラの甘い息』(柚月裕子著)。ミステリー界期待の星として、大注目の柚月さんが今回挑んだのは、女性たちの抱える闇、欲望をリアルに描いた犯罪小説。そこで作品冒頭の50ページまでを試し読み連載(全六回)にて掲載!! 日常生活における人間の心の脆さを覗いてみて下さい。
連載第一回となる今回は、物語の導入部であるプロローグを全文掲載!!

 

 プロローグ

 椅子に腰を下ろすと、窓のブラインドが下げられた。
 窓から室内に入り込んでいた陽光が遮られ、あたりが薄暗くなる。
 診察室に置かれているスチール製の机、壁にかけられているカレンダー、医学書が納められている事務用ラックや、隅に置かれている観葉植物の輪郭が曖昧になる。目の前の椅子に腰かけている医師の表情も、よく見えなくなった。
「どうですか。調子は」
 医師が訊ねた。少し考えてから、つぶやくように答える。
「まだ、ときどき頭がぼうっとすることはあります。でも、その状態からなんとか自分で戻れるようになってきました。以前、先生から教えていただいた方法で」
「それはよかった」
 医師が微笑む気配がする。
「でも」
 膝の上で、指をせわしなく絡ませる。
「うまくいかないときがあります」
「それはどんなときですか」
 医師が訊ねる。
「目眩がきついときです。そのようなときは意識も朦朧として、なかなかあの場所に行けません。気がついて時計を見ると、普段よりも時間が長く経っています」
 医師は慣れた手つきでキーボードになにかを打ち込むと、椅子ごと身体をこちらに向けた。
「じゃあ、今日も練習しましょうか」
「お願いします」
 大きく肯く。
 医師は椅子の背にもたれ、身体の力を抜いてゆったりとした姿勢をとった。
「では、いつもどおり、ゆっくりと深呼吸をしてください」
 深く息を吸い、大きく吐き出す。深呼吸を、数回繰り返す。
「目を閉じてください」
 指示に従い、瞼を閉じる。
 医師がゆっくりとした低い声で、問いかける。
「あなたはいま、あるところにいます。そこはどんな場所ですか」
 頭のなかで想像する。灰色の壁が見えた。
「コンクリートに囲まれたところです」
 医師はなにか思案するように、ふうん、とつぶやくと言葉を続けた。
「では、あなたの目の前に、コンクリートの階段があります。十段です。私がいまから数をかぞえるごとに、あなたは階段を下りていきます。ゆっくりと。一段ずつ」
 下へ続く階段を、想像する。
 医師がゆっくりと、数をかぞえはじめる。
「ひとーつ、ふたーつ、みっつ……」
 頭のなかで、コンクリートの階段を、一段ずつ下りていく。下りるごとに、診察室の外から聞こえていた車の音や、街の喧騒が遠のいていく。
「ここのつ、とお」
 階段を下りきった。
「あなたの目の前に、ドアがあります。どんなドアですか」
 少し考えてから答える。
「スチール製のドアです」
「これからあなたは、ドアを開けます。ドアのなかは、あなたが安心できる場所です。海のなかかもしれないし、自分の部屋かもしれない。雲の上でもいい。そこはあなたにとって、とても居心地のいいところです。さあ、ドアを開けてください」
 ドアノブに手をかけて、ゆっくりと開ける。
「さあ、そこはどこですか」
 木々が生い茂る森だった。
「森のなかです」
 医師は質問を続ける。
「暗いですか。明るいですか」
「明るいです。木々のあいだから、木漏れ日が差し込んでいます」
 あとは自然に、言葉が出た。
 しばらく森を歩いていると、樹齢百年はありそうな、大きな樹があった。幹に抱きついた。
 緑と土の匂いがした。鳥の声も聴こえる。
 樹に抱きついていると、遠くから医師の声が聞こえた。
「そこに、あなたを脅かすものや、嫌な気分にさせるものはなにもありません。安全な場所です。しばらくそこで休みましょう」
 幹にそっと頬を寄せた。大きなものに守られているような気持ちになる。心地よい。気持ちが落ち着いていくのが自分でもわかる。
 しばらくそうしていると、遠くから再び医師の声がした。
「落ち着きましたか?」
「はい」
 夢心地で答える。
「あなたはその場所に、行こうと思えばいつでも行けます。目を閉じて、深呼吸をして、ゆっくり階段を下りれば、あなたが心を落ち着ける場所が広がっています。いいですね?」
 ゆっくりと肯く。
「では、そろそろ戻りましょう」
 もう少し、森のなかにいたかった。でも、またいつでも来られる。そう思い、幹から手を離した。
 医師は、この場所へ誘ったときと逆の方法で、もとの世界へ連れ戻す。
「さっき開けたドアから外へ出て、私の声に合わせて階段を一段ずつ上ってください。いいですか。数えますよ。ひとーつ、ふたーつ」
 言われたとおりに、声に合わせて階段を一段ずつ上る。
「ここのつ、とお」
 階段を上りきった。同時に、パン、と手を叩く音がした。
「目を開けてください」
 はっとして瞼を開ける。
 あたりを見回す。見慣れた診察室で、椅子に座っていた。壁にかけられているカレンダーも医学書が納められている事務用ラックも、隅に置かれている観葉植物もなにも変わらない。違っているのは、自分の気持ちだけだった。速かった鼓動がゆったりとして、気分が落ち着いている。
 医師は椅子から立ち上がると、下りているブラインドをあげた。
 夏の終わりの爽やかな日差しが、窓から入り込んでくる。
「気持ちが落ち着かなくなったり、わけもなく動悸がしたりするときは、いまの方法を思い出してくださいね。自宅、駅のホーム、公園、どこでもいいです。どこかに腰かけて、目を閉じて、いまのように自分を、安全な場所へ連れていってあげてください。再び目を開けたとき、気分は落ち着いているはずです」
 微笑むと、医師は満足そうに肯いた。
「薬はいつもの安定剤と睡眠剤を出しておきますね。ではまた、二週間後にいらしてください」
 椅子から立ち上がり、頭を下げる。
「ありがとうございました。先生」
 

※本記事は『ウツボカズラの甘い息』(柚月裕子著)の全464ページ中50ページを全六回に分けて掲載した試し読みページです。次回(第二回)更新は6月14日(日)を予定しています。

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