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2015.04.07

後編

みんな福島を語っていい

開沼 博/山本 昭宏

みんな福島を語っていい

「社会はなぜあんな大きな夢を語ったのか。」という問いで終わった、『はじめての福島学』(イースト・プレス)の開沼博さんと『核と日本人 ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ』(中公新書)の山本昭宏さんの対談前編。フクシマとヒロシマ、日本人にとって核や原発はどういった存在であり続けたのでしょうか? 社会学者と歴史学者による熱い議論が続きます。

「フクシマ」のイメージと現実のすり合わせをしようと思ったが…

山本 地方の問題でいうと、再稼働の問題もまさにそうです。東京の省庁関係者や政府要人は別にして、川内原発の再稼働の事例でいうと、もともと原発は地方のカネの問題という側面が強い。それがまた繰り返されていると思います。報道を見ていると、悪い意味で、震災前に戻っていくのだなあと感じるところです。現代日本社会では、原発立地地域が、自ら望んで故郷の原発を動かしたいという側面もある。

おもしろいのは、今年2月の全国紙、『日本経済新聞』『読売新聞』『朝日新聞』の世論調査の結果です。原発の再稼働の是非を問うた世論調査の結果では、反対の人が賛成の人より多い。しかしながら、原発の再稼働は進む。福島をフィールドに議論を展開している開沼さんは、これをどう見ていますか。

開沼 意識・イメージと現実の進展に大きな差が出てくるということは、私が2011年6月に出版した『「フクシマ」論』の根底を貫くコンセプトであり、震災後に追記した部分にも様々なことを書きました。そこで炙りだした、社会のあり様は、いまだ全く崩れていないと言わざるをえません。イメージの部分では急速な転換、急進的な改革、革命を求める動きがあったけれども、現実には極めてリアリスティックなプロセスが淡々と進行している。

こういう状況に、今になって驚いている人がいるようですが、別に今になってはじまった現象ではないんですね。

2011年4月10日に新潟県議会議員選挙がありました。東京電力は、太平洋側には福島第一、第二原発、日本海側には柏崎刈羽原発をもっています。これがある柏崎市・刈羽村の選挙区では2議席のところに3人が出馬し、うち原発容認派が2名、脱原発派が1名出馬しましたが、脱原発派が負けました。まだ、もう一回爆発あるんじゃないか、というぐらいに事故が進行している最中です。イメージの問題では原発は当然「ヤバい」となっているのに、地方にはまた別な夢を見ることのない人々がいます。ぼくは選挙の日に現地にいました。この4年間、それが全国で繰り返し起こってきただけです。震災後に、原発立地地域を見れば、脱原発を掲げる首長が勝った例は一件もありません。

2011年6月に出した『「フクシマ」論』から2012年9月に出した『「フクシマ」の正義』にかけて、それで、夢と現実、イメージと現実のすり合せをしようとしました。どちらかが正しいのではなくて、すり合わせの議論をする場を用意しないで思考停止していても何も残らないよと。山本さんがご著書の最後のほうでも触れていることに通じますが、推進/反対の二項対立が解決をより困難にしてきた歴史を踏まえれば、状況を改善する処方箋はそこにしかなかった。

ですが、無理でしたね。モラル・パニックのほうが圧倒的に強かった。大きな不安の中で自らを正義の側にたたせることに必死になり、思考停止の中で安心を得ようとする。結果、何も状況が改善されずにただ時間が引き伸ばされただけどころかむしろ状況は悪化した。途中で諦めて今に至ります。

山本 どういう言い方がいいのか、イメージの問題を一冊にまとめたぼくが言うのは何ですが、ぼくも、いったん絶望しきる必要があるのかなと思っています。絶望しながら、過去やデータに潜る作業が必要なのかなと。だから、ぼくとしては、脱原発運動にシンパシーを感じつつも、それにつながるような文章はあまり書いてきませんでした。念のために言い添えておきますが、脱原発運動が無意味だなどと言うつもりはありません。ただ、今のぼくがそれをすると、過去の同じことを繰り返してしまうような気がしました。そうではないアプローチをしたい。

開沼 なるほど。つまり、こういうことですかね。イメージと現実に圧倒的な分断がある。イメージ側に立っている人は「私たちが夢・理想を掲げれば社会はついてくる」くらいに思って大クラッシュし、結果消えてしまうわけです。その立場に立つことは簡単ですが、立ったところで、結果は「誰得」です。一時的に満足はできるかもしれないけれどもそれ以上ではない。現実を追い求める人は確実に居続ける。だから、つなげることを諦めたあとからは、現実の側をいかに徹底して見るかと。

 

原発と憲法9条や自衛隊への態度とは構造的に近い

山本 その通りです。戦後70年が経ち、憲法の議論も高まっています。開沼さんのご指摘は、ぼく自身が9条の議論をしている人と一緒にいるときに感じるジレンマと、非常によく似ています。非常にリアリスティックな立場と、非常に理想的な立場がある。どこかで妥協しなければならないが、どこでするのか。その点で、妥協を拒んで安定した対立構造が再生産され、けっきょく問題は棚上げにされ続けてしまう。そこで誰が得をするのか。もちろん、得をする利害関係者がいますが、それは限られた人々でしょう。

もしかしたら、昨今の憲法を巡る問い、あるいは3・11以降の日本社会で行われてきた福島と核をめぐる議論は、戦後日本の呪縛のようなものが端的な形で表れているのではないか。いや、戦後に限らない、近代日本でしょうか。いずれにせよ、この社会から原発や自衛隊だけピンセットで抜き出すことはできないのだろうということが、苦い感覚としてある。調べれば調べるほど発言しにくくなるような、言ってしまえば面倒くさくなるようなところがある。

開沼 出てくるキーワードがさすがです。ぼくは普段、原子力の議論をする際に、9条や自衛隊とは一言も書いていないけれども、そこに存在する議論の構造を常に意識し続けている。

はじめての福島学』の冒頭で触れた、福島問題への絡みづらさを生み出す科学問題化(その問題を語る際には、長い時間と高度な科学技術の中で蓄積された他分野にわたる知識をおさえている必要があるように見える)・政治問題化(問題を語ろうとすると、お前は賛成か反対かと踏み絵を踏まされ、政治問題の中に回収されていてしまう)の話とパラレルです。

例えば、マジで自衛隊を「即時潰すべし」というポジションから批判しようとしたら、国際政治や軍事や歴史などを相当知らなければなりません。海外や被災地での非軍事的な貢献も、いくら欺瞞だと批判しても、その貢献があったという多くの人が理解しやすい事実は確実に残る。自衛隊の必要性を主張するポジションにいる実務家・専門家はそれを知っているので、その上をいく知識をもって反ばくしないと自衛隊がいいのか悪いのかという議論には勝てません。

もちろん「ダメなものはダメ」「子どもたちを戦場に送るな」的な掛け声・根性論で議論に勝ったことにしようとする人いますよ。いますが、それで全員説得できるわけではない。

その上、伝統芸能的に政治的な二項対立があるから、何か発言したらすぐに「お前は軍国主義者」「お前は脳内お花畑」と極端なレッテル貼りされて「仕分け」がされてしまう。そこに巻き込まれた時点で、議論が成立しなくなる。

まあ、9条の話にしても同じようなものですね。

それで、これらはある種、超越的な価値の論争になるわけです。宗教論争と還元したほうがわかりやすいし、実際そういう言い方で捉える方もいますね。そして、これら外交・防衛の話や9条の話と並ぶものとして、原発の話も超越的な問いとして位置づけられた瞬間があったのではないか。そう思っています。

まあ、これは、しかし、私たちにとっては必然であるのかもしれない。私たちが、原爆投下によってはじまった敗戦後の日本社会をいまも生き続けているのだとすれば、ですね。

ただ、この敗戦後の日本社会というのが薄らいできているのも事実ですね。ポスト「敗戦後の日本社会」になりつつある、という指摘をする論者も多いわけです。

だから、例えば、ぼくたちぐらいのアラサー以下の世代で「自衛隊絶対反対」「絶対に9条を守れー」とか声高に主張している人いたら、「政治意識高いなー」と結構浮くでしょう。他方で、年配の人には「自衛隊絶対反対」「絶対護憲」そういう人も普通にいる。

最近も、原発再稼働に賛成か反対かを年代別にしたデータがでて、若い人は再稼働オッケーと言っています。そうではない人もいるけども、端的に言えば、是々非々で判断するようになっている。他方、年配の人は絶対反対と言っている。自衛隊・憲法と同様に。

なので、話を戻しますが、超越的な価値の論争の、昔はどうだったか知りませんが、少なくとも現在においては不毛な二項対立構造を打開していく余地も、今後長い時間をかけて出てくるかもしれないとも考えています。

山本 2012年に京都で開沼さんと対談したときも似たような話をしましたね。私は大学などで若い世代に教えるので、原発をどう思うかとアンケートを書いてもらったら、若い人ほど「原発はオッケー」という意見です。「自分たちが生きている社会の生活水準がこれ以上、下がるのはいやだから。多くの先進国も、新興国もたくさん原発を持っているじゃないか」という。若い人ほどそうです。

開沼 そのような話を聞くと、震災直後、原発の是非について、超越的な価値判断として「何が何でも絶対反対、今すぐ潰せ」と強硬に非を唱える人が、若い人の中にも確実に出てきたわけですが、しかし、この層が、その後どうなっているのか、どうなっていくのか、というのは気になりますね。

というのは、超越的な価値判断とともに強硬に非を唱えるという作法は現在の年配層が自衛隊や憲法に対してとってきた態度と構造的に近いわけですね。

例えば、いまでも「原発は絶対だめだと思う」と滔々と語る大学生とかに出会うこともあります。その時、なるほど、じゃあ「自衛隊は?」と振ると、そこは「何が何でも絶対反対、今すぐ潰せ」というわけではなく「一応あったほうがいい」と是々非々だったりする。「人命を守るため、何かあったときのために、多少のコストがかかってもあったほうがいい」「暴走しないように注意すれば、存在は許容される」「現にそこで働いている人がいる」などと言う。で、これは、まさに原発に関して是々非々で語ろうとする議論と同じ構造の論理に陥っている。

「人命を守るため、何かあったときのために、多少のコストがかかってもあったほうがいい」「暴走しないように注意すれば、存在は許容される」「現にそこで働いている人がいる」。「だから、一概に原発今すぐ潰せなんて言えないよね」という論理になるわけですね。

その点を指摘すると、口ごもる。超越的にダメならば、どちらもダメなのではないのか、いや、「人の命が」とかいうならば、むしろ、確実に人が死にまくる防衛・軍事問題に接している自衛隊や憲法にこそ超越的な価値判断を適応すべきではないのか。

そんなふうに、「一貫性のなさの理由」を問い詰めても答えられないんですね。

なぜ、自衛隊や憲法には是々非々な価値判断をする若者が、原発にだけ超越的・絶対的な価値判断の基準を持つのか。この矛盾をずっと抱え続けるのか。あるいは、どこかでこの矛盾を抱えきれなくなって、どちらかの信念を変えて一貫性を取り戻すのか。

なぜ「若者」に絞るかというと、年配層は結構一貫しているのではないかと予想するからです。つまり、年配層は原発・自衛隊・憲法改定、全てに対して「何が何でも絶対反対、今すぐ潰せ」といいそうだな、と。

まあ、ここらへんは、社会調査など用いて、実証的に検証すべきかと思っています。いずれにせよ、今は原発事故の記憶が薄らいでないから、若い世代でも超越的な価値判断が成立するが、いずれそれは崩れると思っています。現に、4年のうちにだいぶ崩れているでしょう。それが、今後、どのタイミングでどうなるのか、というのは、興味がある点です。

まあ、そんな感じでこれは『はじめての福島学』の内容とは全然関係ない話でした。「福島の問題」を「地方の問題」としてではなく、「核・原子力の問題」として語るならば、ここまでの話のようなことが切り口になると思っています。ただ、まだ、状況を観察するには早すぎる。状況を整理できる状態にもっていくには時間が必要でしょう。

 

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