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2009.08.01

story 2 level(後編)

LiLy

story 2 level(後編)

 右、または左の、どちらに向かって歩こうか決められずに立ち止まったのは、初めてだった。もちろん、右に行けば乃木坂、左に行けば六本木。それぞれ5分ほど歩いたところに地下鉄の駅が見えてくるのは分かっていた。自分のいる位置はしっかりと把握していたけれど、私は行き先を持たなかった。
 彼に約束をひとつ破られたことで、私は、今日という時間の中で迷子になってしまった。
 子供の頃、おばあちゃんちの近くで道に迷い、知らない道をひとりで歩いているうちに日が暮れてきたことがあった。あの時私は、あまりの心細さに声をあげて泣いた。田舎の真っ暗な夜の中に大きく響いた自分の泣き声に、私は孤独を余計に感じたのを覚えている。
 今、忙しく動いている街の中で、ひとり立ちつくす私の耳には、車のクラクションや人々の話し声が騒がしく届いている。目を細めずには見上げることのできないほどの光が、真夏の空からまっすぐに私へと注がれている。平日、真っ昼間の六本木は、私に泣くことを許さない。私の胸は、今まで感じたことのないほどの心細さでいっぱいになっていった。
 迷子になった私の泣き声を聞いて、助けにきてくれるお母さんはここにはいないし、お母さんじゃもう、私の寂しさは埋められない。この心細さを、この孤独を、誰かに訴えるためにかつて持っていた泣き声は、誕生日を迎えるたびに音量をひとつずつ下げていき、いつのまにかミュートに設定されていた。心で泣いていても、声はもちろん、顔にもでない。

 心の中で音なく流れる涙になんて、誰も、気づいてくれないね。
 でも、でもさ、
 気づいてくれればいいのに。で、抱きしめてくれればいいのに。

 そんなことをぼんやり願っていたら思い浮かんできたその顔に、私は苦笑した。変なの。だって彼こそが、私をこんな気持ちにさせている張本人なのに。
「すみません。新国立美術館はどっちですか?」
 目の前の大通りをこっち側に渡ってきた中年の女の人に声をかけられた。私は本当によく、こうして人に道を聞かれる。ミワはイイヒトそうに見えるから、といつかエリコに言われたことを思い出す。あれは決して褒めてはいなかったな、と今更ちょっぴり傷つきながら、私は女の人に道を教えた。細い金の時計が巻かれた彼女の手には、彼が見たいと言っていた展示会のチケットが握られていた。私に小さく頭を下げてから乃木坂方面に歩いて行った彼女に背を向けて、私は左へ歩くことにした。もう、家に帰ろう。
 彼への土産話として美術館に行こうかとも一瞬思ったが、私はわざわざ一人ぼっちでそこに足を運ぶほどの興味を、芸術に対して持っていない。というより、すべてに対してそうかもしれない。何かに強く興味を惹かれる、ということが私にはあまり起こらない。趣味もないし。学生時代まではなんとなく探していた“夢”というものも、結局見つからなかったし。
 大江戸線のホームは地上から遠く、そこまで下りるのに数分かかる。私はエスカレーターの手すりにもたれ、クーラーで急に冷やされた額の汗をハンカチで拭きながら、地下へ地下へともぐっていった。反対側のエスカレーターは、地上へ地上へと人々を運んでいる。既に上へ進んでいるそのエスカレーターを、小走りに駆けあがっていた数時間前の私に、できるものなら教えてあげたかった。待ち合わせに遅れそうだからって焦ることないよ、彼は来ないから、と。
 改札を通り、またエスカレーターを乗り継いでやっとホームに着いた頃には、私はすっかり深いところまで落ち込んでしまっていた。だからだと思う。私は電車の中で、手持無沙汰に眺めていた携帯のボタンを押して、興味のない男にメールを打っていた。何度か食事に誘われていたが、まったくタイプじゃなかったので適当にかわしていた同期入社の佐藤君を、家に遊びにこないかと誘っていた。

 アパートのドアを開けると、会社帰りの佐藤君の後ろで、日はすっかり暮れていた。インターフォンで目覚めたばかりの私の寝起き顔を見て、「思ったより元気そうじゃない。あー、良かった」と心からホッとしたような顔をしてから、佐藤君は「おじゃましまーす。キッチンはそっち?」とグングンうちにあがってきた。
 Yシャツがびっしょりと濡れてくっついている、汗だくの背中。ひじのところまで腕まくりされたYシャツから覗く、毛深い腕。そこに食い込んでいるマツキヨの黄色いビニール袋と白いスーパーの袋は、私のために買ってきてくれたものだろう。
 私からの急なお誘いメールに驚きながらも喜びを隠せない、といった様子でわざわざ会社のトイレから電話をかけてきた佐藤君に、私は自分勝手ながら、ひどく戸惑った。その時私は既に家にいて、テレビで水戸黄門を見ながらボーッとしていたので、彼を誘ってしまうほどの深い落ち込みからは少しばかり回復していたのだ。変に期待をさせてはいけないと焦った私は、「今日風邪で会社を休んでいて、かなり体調が悪いから薬を買って届けてほしかったんだけど」と過去形で言ってみた。「でももう大丈夫みたい」と続けようとすると、頼りにされたことが嬉しかったのか、佐藤君は「たまご粥を作ってあげるよ」と余計に張り切ってしまったので、私はもう今更断れなかった。
「なんか、わざわざごめんね。クスリ代と材料費、いくらだった?」
 すでにキッチンでお湯を沸かしはじめている佐藤君に私は聞いた。そんなこと気にするな、という風に自分の顔の前で手をサッと払ってから、佐藤君は口笛を吹きながらスーパーの袋から野菜やたまごを取り出していった。そして、流しの下の戸を開いてまな板と包丁を取り出し、それらをサッと水洗いした。初めてうちにきたのにもかかわらず、何の遠慮もなく私の小さなキッチンを使っている佐藤君に、私はちょっとびっくりした。
「ミワちゃんは風邪なんだから、そこ座ってゆっくりしてて!」
 私の視線に気づいたのか、佐藤君がキッチンから顔を出してそう言った。
「ありがとう」
 私はソファに座り、つけっ放しになっていたテレビが水戸黄門からいつの間にかクイズ番組になっているのを眺めながら、佐藤君に聞こえないだろう小さな声で呟いた。自分の部屋に人がいるって、いいな、と思った。目を閉じてキッチンから湯が湧く音を聞いていると、お母さんに守られていた子供の頃に戻ったような気持ちになった。
 たまご粥は、とってもおいしかった。風邪だと嘘をついていたことも忘れ、私はおかわりまでしてしまった。佐藤君はとても嬉しそうな顔をして、食べている途中だったスプーンをテーブルに置いて立ちあがり、私の空いた皿にたまご粥をよそってきてくれた。佐藤君のお粥は喉にもお腹にも、心にも温かく、この人のことを好きになれたら毎日がとても幸せだろうな、と私は思った。
「あのさ、3月に転職してく奴らの送別会あったじゃない、新宿で。覚えてる? でね、2次会のカラオケ行く前にさ、ミワちゃんみんなからちょっと離れたところで電話してたんだよ。でね、」
 佐藤君が買ってきてくれた熱冷シートをおでこに張り付けて、私はテレビで始まったトレンディドラマを見ていた。なんで売れているのかサッパリ分からない男性アイドル演じる不良が、全く悪そうに見えないことに、私はなんだかイラついた。そろそろ帰ってほしいと思っているからか、佐藤君の口癖の“でね”が、なんとなく気に障る。
「でね、こんなこと言ったら失礼かもしれないけど、なんか、ちょっと陰があるなって思って、ミワちゃんの横顔見て。なんか、ほんと正直に言っちゃうと、俺が守ってあげたいって、なんか、ふとね、思っちゃって、その時」
 やばい、と思って佐藤君を見るとピタリと目が合った。照れくさそうに笑ってうつむいた彼のその表情にも、ネクタイをゆるませたその首元にも、まったくセックスアピールを感じないことを確認した私は、心の中で深いため息をついた。もし彼からそれを感じられたなら、私は今、ここで彼にキスをする。私と佐藤君は、このままソファの上で愛し合う。深く、深く愛し合う。そしてこのままここに一緒に住み、日々互いの愛を深め、いずれは結婚だってするかもしれない。そうならないことが、私は本当に残念だった。
「そっからなんっすよ」
 照れ隠しのために突然飛び出した丁寧口調で、佐藤君は告白を切り出した。
「自分が、ミワちゃんのこと好きになったのは」
 なんだかすべてが、とても残念だった。もし、鹿村栄治が同じセリフを言ったなら、私へ愛を告白することに対しての緊張のあまりに、自身のキャラを超えて飛び出した“自分”という言葉さえ、私の耳にとても愛おしく響いたのに。佐藤君のそれは、彼自身のセックスアピールを更に減らしただけだった。
「ねぇ佐藤君って、趣味とか、夢とか、ある?」
 私は聞いた。佐藤君はちょっと驚いた顔をしてから、ゴホンッとわざとらしい咳払いをひとつしてから、妙に真面目な声を出した。
「うーん、そうですねぇ。趣味は、料理です。夢は、平凡だけど温かい家庭を持つことです!」
 佐藤君は、私が彼と付き合おうかどうか迷っていて、面接のように質問をしているのだと勘違いしているようだった。少し間をおいて、佐藤君は大声で付け加えた。
「ミワちゃんみたいな女性と一緒になれたら、自分、最高に嬉しいっす!」
 彼の照れ隠しの体育会系丁寧語に心底うんざりするのと同じくらい、そう思ってしまう自分自身も嫌だった。だって佐藤君、悪い人じゃないじゃない。むしろ、すごくいい人じゃない。そう自分に言い聞かせてみても、やはり私は、佐藤君のことを男として好きになれない。嫌悪感さえ、抱いてしまう。
「私は、趣味も夢もないのね」と私は話しはじめた。
「私だって料理は人並みにはするし、結婚にだって人並みには憧れている。でもそれって、趣味とか夢って呼べるレベルのものじゃないと私は思ってるの。それをそうだと言い切る佐藤君を否定するつもりはないし、むしろ羨ましいと思うくらいよ。私も、堂々とそう言えたら良かったなって、思うから」
「…………」
 私の答えがイエスなのかノーなのか分からずにきょとんとする佐藤君に、私は続けた。
「私たち、似てるの」
 佐藤君の表情がぱぁっと明るくなったのに気づいた私は、間を空けずに言った。
「言ってしまえば、私と佐藤君は同レベルなのよ。だから佐藤君、私のことを好きになったんだと思うよ。私レベルの女なら自分とも付き合ってくれそうだって思ったから好きになったし、こうして告白もしているんだと思う。そういうものなのよ。男と女って」
「それは、ちょっと違うと思うな」と口を挟んできた彼に、私は喋るスキを与えなかった。
「ううん、本当よ。みんなそうやって近場で手を打って、付き合ったり結婚したりしてゆくの。私の親友もそう。で、みんなそうやって妥協して得た幸せこそが本物だって思い込んでる。私、嫌なの、そんなの。自分にはないものを持っている男に憧れたいし、そういう男と一緒になりたい」
 私を好きだと告白してくれた佐藤君に対して、ひどく失礼なことを言っているのは分かっていたけれど、本音が口から溢れ出ては止まらなかった。エリコにも、誰にも、一度も口に出したことのなかった私の本心を言うことができているのは、相手が佐藤君だからに他ならなかった。
 二人きりになっても決して襲ってこないと分かっていたから彼を家に呼んだように、何を言っても怒ったりはしないという安心感が、佐藤君にはあった。つまり私は、彼を自分よりも低レベルだと判断し、見下しているというわけだ。
「じゃあ、じゃあ逆にさぁ、ミワちゃん」
 佐藤君はやはり、怒っていなかった。とても冷静な声で、私に言った。
「ミワちゃんにはないものを持っている、とても素敵な男の人が、ミワちゃんのことを好きになる理由は、何なの?」
 彼は、とても怒っていた。そして私よりも一枚上手なやり方で、私を傷つけ返してきた。
「…………」
 もう帰ってよ、と言おうとしたその時、テーブルの上で私の携帯がブルブルと震えだした。画面に浮かんだ“鹿村栄治”という名前を見た瞬間、私はとても誇らしい気持ちになって、佐藤君を傷つけてやりたい衝動に駆られていた。それは、すぐにでも彼からの電話にでたい、という気持ちを抑えるほどだった。
「彼氏なんだ」
 私は言った。
「カメラマンなの。私なんかじゃ手の届かないところにいるような、素敵な男よ。彼が私を好きな理由、教えてあげる。それは、私がフツウすぎるほどにフツウなOLだからよ。
 ホッとするんだって、彼。周りには、モデルとかアーティストとか、ブッ飛んでる女しかいないから」
  嘘じゃない。会社の制服姿の私をナンパした彼は、私を初めて抱いた時、そう言ったのだ。
「……彼氏がいるなら、俺を呼ぶなよ。たまご粥作って、告白までして、俺、バカみたいじゃん」
 佐藤君はほとんど泣きそうな声でそう呟くとすぐに、家を出て行った。私はすぐに、携帯を手にとって鹿村栄治に電話をかけ直した。
 彼からの不在着信を記録している時間から、まだ3分しか経っていないのに、彼は電話にでなかった。気付かなかったのかな、と思ってまたかけた。
 でない。首をかしげてから、また、かけた。そしてまた、電話をかけた。違う、私が彼に電話をかけているんじゃなくて、彼から電話があったので、私はそれをかけ直しているだけだ。
 でも、でない。また、かけた。でないから、またかけた。自分から電話をかけておいて、どうしてでないのか分からないから、またかけた。
 私は泣いていた。
 せきを切ったように流れ出した涙は止まらず、彼に電話をかけ続ける指も止まらなかった。私は泣きながら、彼に電話をかけ続けた。部屋の中が朝日で明るくなるまで、私は泣きながら1秒も空けずに電話をかけ続けた。
 やっと流れることをやめた涙の塩分が頬に残り、海で日焼けした後みたいにヒリヒリした。やっと手から離された携帯は熱を帯びていて、やっと携帯のボタンから離れた指はピリピリと痺れていた。
 お腹が空いたので、鍋に残っていた佐藤君のたまご粥を温めて食べた。やっぱりとっても、美味しかった。私はボーッとした頭で、考えていた。鹿村栄治が私を傷つけるように、私は佐藤君を傷つけたわけだけど、どこかに、鹿村栄治を傷つける女の人だって存在しているのだということを。どんなイイ女なんだろう、と私は考えていた。私は彼女に、猛烈に憧れた。

 自分よりもレベルが高い男を追いかけるよりも、自分よりもレベルの低い男に追いかけられた方が、女は幸せなのだろうか。
 その答えは、明らかだった。いつかエリコにハッキリと言ってやろうと思いながら、私は携帯を手に取った。そして、鹿村栄治と佐藤君、ふたりのデータをメモリーから消去した。
「今日も一日、猛暑になりそうです」
 昨日からずっとつけっ放しにしているテレビでは、いつの間にか朝のニュースが始まっていて、いつものお天気お姉さんが微笑んでいた。画面左上に表示された時刻を見て、私はハッとした。頭の中で急いで、あとどれくらい寝る時間があるのかを計算した。
 1時間半だけ眠ったらすぐに起きて、シャワーを浴び、メイクして、制服に着替えて出社しなくちゃ。泣きすぎて熱を持ったまぶたを閉じながら、いつもの私のフツウの1日が始まったことを感じていた。すぐにウトウトしはじめた意識の中で、私はそのことに心底、ホッとした。

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