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2009.06.05

story 1 XOXO(後編)

LiLy

story 1 XOXO(後編)

  ベッドサイドのデジタル時計に、0が並んだ。今日は私の、30歳の誕生日。まつ毛のあいだの細かい隙間をブラウンのシャドーで丁寧に埋めてから、自分の目の形に合わせて特別に作ってもらった、目尻だけのつけまつ毛をつけてキメようと思っていたのに、今、泣き腫らして真っ赤になった私の目の周りは、流れ落ちた化粧で真っ黒になっているだろう。
 30。私は心の中で、そっと呟いてみた。29とは重みの違う、30という響きに、強い違和感を覚える。でも、どこか冷静に、納得している自分もいた。ベッドの下に座り込んだままなので、お尻の下敷きになった左足のつま先が痺れてきた。でも、体勢をかえて座り直す気力もない。今のこの惨めな状況こそ、30代に突入した私が立っている、人生の地点なのだろう。
 悪いのは、私だ。編集者である彼の海外ロケがとても忙しいことを知りながら、私がハワイまで勝手についてきたわけだし、彼の仕事仲間に私の存在がバレてはいけない、と気を使い、彼のホテルからかなり離れたホテルを取ったのも、私。彼が私の誕生日を忘れているかもしれない、ということに薄々気付きながらも、私は念を押すこともしなかった。そういうのは恩着せがましいかなって、思ったからだ。
 それらの結果として、今、ひどくガッカリしたって、自業自得。自分がいけないのに、彼を責めることはできない。この関係が不倫だってことも、そう。結婚していることを知っていて、私が好きになった。だから、今の、私のこの、どうしようもなく沈んだ心の責任は、私自身にある。
 そう思うと、ほんの少しだけど気持ちがラクになって、目から力弱く流れ続けていた涙も止まった。私は立ち上がり、痺れた左足を引きずりながら、顔を洗うためにバスルームに向かった。真っ暗なバスルームに明かりをつける前に、さっきのは夢ではなくて、本当にナツキが隠れていたらどうしよう、と一瞬怖くなったが、白く照らされた部屋の中にナツキはいなかった。
 とんでもなく醜い顔をしているだろう自分の姿を直視する勇気を持てず、私は鏡から目をそらしながら、洗面台の蛇口をひねった。勢いよく出た水を見ながら、私はナツキのことを考える。
 ナツキは、すべてを自分のせいにする私の考え方を、軽蔑すらしていたように思う。私から連絡を絶ったので、縁を切ったのは私の方からだと思い込もうとしていたけれど、見放されたのは、私なのかもしれない。
 熱くなった湯で手を洗いながら、でも、と私は思う。もちろん私だけが悪い、ということではないのかもしれないけれど、彼がいつも冷静に、正しいことを言っているのは事実なのだ。感情的な言い争いを何よりも嫌う彼は、持論を述べたあと、いつも、私の目をまっすぐ見つめる。彼の瞼から、奥二重の線が消える。眩しいものを見るように目を細めながら、細くて長い指を、そっと自分の唇にそえる。そして、「ね、正論でしょ」とでもいうように優しく微笑むのだ。「本当だ、あなたは正しいわ」と、私はいつも、その場で納得し、彼の前で頷いてしまう。彼と別れてひとりになってから、私の感情はグルグルと、心の中で暴れ出すのだ。
 彼の安定した精神状態がまっすぐスーッと伸びているとすれば、その線の上に、アップダウンした曲線を描いているのは、いつも私。正論を口にしながら冷静な態度を保ち続ける彼に、冷たさを感じ、傷ついた私が勝手にひとりで、泣いたり怒ったり、その感情をすべて噛み殺したりして、空回っているだけなのだ。
 清潔になった手の平に、目元専用のクレンジングジェルをのせて、私は顔を上げ、鏡の中の自分を見つめた。涙に溶けたマスカラとアイラインが、まだらに黒く、線からはみ出した下手くそなぬりえのように、目の周りを汚している。目を閉じて、ジェルをなじませると、また、涙が流れてきた。
 美貌に恵まれなかった私は、彼の顔に惚れている。
 私より2つ年下の彼は、とても美しい。仕事で初めて会った時、取材内容の説明をする彼の言葉なんて耳に入ってこなかった。私は適当に相槌を打ちながらも、頭の中で、彼の美しさを分析していた。
 ハイライトとノーズシャドウを駆使してつくり上げたような、この彫りの深さは完璧と言える。西洋人とのハーフのようにも見えるが、深すぎず、濃すぎない。奥二重で切れ長の目と小さめの唇が、爽やかな印象さえ与えている。人の目をまっすぐ見るのは、癖だろうか。表情を変えることをめったにしない彼が、ふっと微笑んだ瞬間に香り立つこの色気は、私の好み、というより、誰もが認める種類のものだ。
 もし、学生時代に出会っていたら、付き合ってもらうことなどできなかっただろう。彼にスッピンを見せたことなど、もちろん一度もないが、何種類ものブラシを使い分け、顔立ちに凹凸をつけ、丁寧にフルメイクをした私でもまだ釣り合わないくらい、ノーメイクの彼の顔は、美しい。
 見つめるだけじゃ、足りなかった。気づくと私は彼を、誘っていた。美しい彼に抱かれる女であることが、私のコンプレックスをなぐさめてくれた。どんなに高価なコスメでも、どんなに完璧なメイクでも私を導くことができなかった、私の理想とする“美しい女”。彼女は、彼のような男に、抱かれるもの。私が自分の中に描き上げた“美しい女”は、私に発情する美しい彼を見るたびに歓声をあげて喜んだ。
 そんなこと、ナツキに言えるものか。私は両手で湯をすくい、ジェルで浮かせたアイメイクの汚れを、涙と一緒に洗い流した。タオルで水気を抑え、鏡を見た。25の時に整形した二重瞼が、不自然な幅をもってパッチリと開いている。メイク映えはするけれど、スッピンではマヌケ。なんというか、バレバレなのだ。私はサッと鏡から目を離し、化粧落としフォームを泡立て始めた。
 自分の顔に強いコンプレックスを感じていることが周りにバレてしまうことが、私は何よりも恥ずかしい。

「奥さんが成田まで迎えにくるかもしれない」という彼に気を使って手配した、彼よりも一本早い便で、私は帰国した。ホテルでも、飛行機の中でも、一睡もできなかったので、体が重たく、成田空港内からJRの駅まで、スーツケースを押しながら歩くことさえだるかった。暇は、私に、考えなくてもいいことをたくさん考えさせて、ずっと知っていたけど、どうしても認めたくなかったことから、遂に私は逃げられなくなった。
 この恋愛は、ぜんぶ、私がひとりでやっていること。彼に愛されているという実感を、最後に得たのがいつだったのか、思い出せないし、もしかしたら、そんな事実自体、はじめからなかったのかもしれない。
 込み上げてくる空しさで心がパンパンに膨れ上がり、もう、涙も出ない。今日が30歳の誕生日だという事実がそれに輪をかけて、私をとても、しんどくさせる。死にたい、とは思わないけれど、今、目の前に、この人生をプツッと終わらせる終了ボタンがあったなら、迷わずに押してしまうだろう。
 成田エクスプレスを待つあいだ、私は電車の中で何をしようか、考えていた。ぬりえ帳があれば、どんなにいいだろう。線からはみ出さないように気をつけながら、無心になって、ただひたすら、色を塗ってゆくのだ。子供の頃、その作業がたまらく好きだったことを思い出す。完璧な仕上がりは、私を満足させた。人生のすべてが私のコントロール下にあるような気持ちにさせてくれたからだ。それは、毎朝のメイクと、似ているかもしれない。
 電車がくるまで、あと5分もある。私は、頭の中にある邪念を払いたい一心で、色とりどりの風船を持った女の子のことを考えていた。色とりどり、に風船を塗ったのは私なのだけど、それらは確かに、カラフルだった。一番上の、青い空に一番近い風船を、私は何色に塗ったのだろう。今なら、私は何色に塗るだろう。
 赤。太陽は黄色。空は青。一番上の風船は、赤。思い出したのとほぼ同時に、バッグの中で携帯が鳴った。ハワイに行っていたあいだにたまっていた、新着メール4件。フォルダを開くと、3件の仕事メールのあいだに“ナツキ”の文字。
 なんだろう。喧嘩別れしたまま、もう2年が経つ。嫌な予感がした。もし、何か攻撃的な内容だったら、今の私の心には、それを受ける余裕はまったくない。
 打ち合わせの日程や原稿の締め切りなどが書かれた仕事メールを読んでから、最後に、私はナツキのメールを開いた。

「シオリ、30歳のお誕生日おめでとう。
 あなたの幸せを、ずっと祈ってるよ。
 素敵な誕生日を! ナツキ」

 髪とスカートをブォンッとなびかせる追い風とともに、ホームに電車が入ってきた。心からなにか熱いものが込み上げてきて、目頭がキュウッと痛くなった。アナウンスと共に開いた電車のドアに背を向けて、私はスーツケースを押して空港へと続く上りエスカレーターの方へ歩き出した。
 ナツキとは、合わないと思っていた。ナツキに、私の気持ちは分かりっこないと思っていた。彼女の恋愛論はいつも、美人目線だったからだ。どんなにいろんな色のパウダーを使いこなし、ナチュラルビューティ風のメイクを丹念につくり込んでみても、私は自分を美人だとは思えなかった。
 完璧に美しいものに憧れ、僻んだ。そして、うまくいかない恋愛関係を、すべて自分のせいにしてはあきらめた。
 フツフツと沸き上がってきた怒りが、心を占めていた空しさを蹴散らかしていった。怒りのベクトルが、初めて、自分ではなく、彼へと向いた。体にエネルギーが循環し、私は今にも走り出しそうな勢いで空港へと戻った。
 私が悪い、と思う方が、彼を責めるよりずっとラクだった。でも、本当に、私だけが悪いのだろうか。常に冷静で、私のことで感情を決して乱すことのない彼は、そんなに偉いのだろうか。
 彼はただ、私のことをそこまで好きじゃない。事実は、たったそれだけだった。それなのに、来るものは拒まず、去るものは追わない、という彼のポリシーに沿うかのように、彼は私との関係を自分から終わらせようとしない。「シオリ次第だ」と彼は言う。そんなの、卑怯だ。ナツキなら、美人なら、こんな関係、とっくに終わらせているに違いない。
 彼に抱かれるだけで、ありがたいありがたいと喜んでいた、私の中の“美しい女”。彼女は、理想的な美人でもなんでもなく、私の中に潜む“ブスの象徴”だったのだ。

 南ウィングの出迎え玄関で、幼い子供を抱っこしている、ひとりの女。彼女が彼の妻だということはすぐに分かった。いつ彼が出てくるのだろうと、入口に視線を這わせるその目つきには、束縛がきつそうな頑固さが露わだったからだ。「奥さん、帰りが遅いと怒るから」。彼がそう言うたびに、感情をぶつけることを彼に許されている彼女が妬ましかった。
 イメージ通りの、コンサバティブな天然美人。その外見よりも、美しい彼を堂々と縛ることのできる“美人目線”に私は、どうしようもなく憧れる。
 パァッと明るくなった彼女の目線の先に、彼を見つけた。スーツケースを積んだカートを押しながら、仕事仲間に奥さんが迎えにきていることをからかわれているのだろう、彼は照れ笑いをしながら妻に向かって手を振った。
 私には見せたことのないその表情に、私の中で何かが弾けた。目線を合わせる彼と、彼の妻のあいだを、私は早足で歩いた。
 太陽は黄色。空は青。風船は赤。女の子はニコッと笑っている。秩序のとれた、カラフルな世界が好きだった。昔も、30になった今も、私はそういうフツウの幸せに憧れる、フツウの女の子なのだ。日陰に隠れる、モノクロの世界になんて、もういたくない。恋人と、太陽の下で、青空の下で、キスをして微笑む、女の子なのだ、私は。劣等感という呪縛から解かれずにいたブスな心を、私は、今、ここで殺す。
 私を見て戸惑う彼に、キスをした。そして、ハグ。さよなら、と心の中で呟いてから、呆然と立ち尽くしている彼に背を向けた。
 まるでその存在にさえ気づいていなかったかのように、彼の妻の横を通り過ぎ、スーツケースを押して、駅へと通じるエレベーターを下る。電車の中で、ナツキに送るメールの内容を考えよう、と決めながら。

<完>

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