「腐女子」「萌え」を先どりした先駆性の実証

 最初の論考は、藤本由香里の「チビ猫のガラス玉~大島弓子の〝自由〟をめぐって」です。先ほどよしながふみが言及した『綿の国星』の、自分を人間だと思う主人公のチビ猫を出発点にして、チビ猫とは、生まれたばかりの赤ちゃんの目のように世界を見るヴィジョンの投影装置であって、そのようして「世界全体をゼロ地点に戻す」ことこそ、大島弓子の作品が一貫して探求しつづけてきたものなのだというのが、藤本氏の考えです。そして、そこには、人間は自由だという強い主張があると同時に、自由に生きることには、どんな悲惨も受けいれる厳しい覚悟が必要だ、というのです。

 藤本氏による大島弓子解釈にはふたつの柱があって、そのひとつはいま申しあげた、世界をゼロ地点に戻す「自由」の問題ですが、もうひとつは「母」というテーマです。

「母」のテーマは、『愛情評論』(2004年、文藝春秋)に収録されたエッセー「母なるものを求めつつ――大島弓子の世界」に詳述されています。ほとんど上質のミステリーのように展開するこのエッセーの結論だけを紹介するのはまことに気が引けるのですが、限られた紙幅の関係上、論旨をまとめさせていただきます。

 大島弓子の作品が目ざしてきたのは、自分より小さなものの生命を守り、育むことであり、それによって自分を超えるという望みがその底にあります。それが大島弓子の「母性」のありかたであり、最終的に大島弓子が母となって育てなおしたいのは、自分自身なのだというのが、藤本氏の鋭利な解析です。

 自由と母性という、一見相反するような視点から照らしだされる大島弓子の世界は、なんと鮮烈に輝くことでしょう。「永遠の少女性」なんてフェティッシュなお題目に閉じこもる男性的な視線をはるか高みから見下ろすかのようです。

 続いて、福田里香の大島弓子論ですが、2種類収録されていて、ひとつは、やまだないととのユニット「西荻キッチン」による対談で、もうひとつは、川原和子による福田里香インタビューです。

 まず後者で貴重なのは、1972年からリアルタイムで、恐ろしいほどの熱意をもって大島弓子を追いつづけた福田氏のマンガ体験の分厚さです。

 とくに、大島弓子が「週刊マーガレット」でローテーション作家の仲間入りをしたのはいいけれど、ヒゲタン(「悲劇担当」作家のこと)になって枠をはめられてしまい、それが「少女コミック」系列に移ってヒゲタンを外れてロマンティックな持ち味を生かせるようになってはじめて、大島弓子の独創的な個性が開花しだしたという指摘など、リアルタイムで徹底して作品1作1作とつきあわなければできないもので、マニアの異常な愛情と歴史家の冷徹な観察眼がみごとに融合していて、感服させられました。

 また、前者のやまだないととの対談では、福田氏は、大島弓子の少女マンガ史における革新性のポイントを3つに整理しています。

 ひとつは、大島作品のヒロインたちには「男になって男を愛したい」という欲望が存在しているということです。これは登場人物の欲望であると同時に、それを読む女性読者の潜在的欲望を代弁するものでもあり、要するに、いわゆる「腐女子」の欲望を先どりするものだというのです。

 ふたつ目は、大島弓子があるマンガエッセーのなかで、自分の転居を担当した引っ越し業者の若い男性2人組を見て、彼らがホモのカップルであると想像したという事実を分析の起点にしています。理想の男性や好きな男のタイプを思いえがくのではなく、男性と男性の関係のありかたを妄想することに喜びを感じるという事実。これはつまり、腐女子の「萌え」の先駆ではないかと福田氏はいいます。

 この大島弓子のイラストエッセーは1975年に書かれていますが、題材として同性愛を描くマンガはすでにあったものの、男性同士の関係性に欲望を刺激される女性心理はまだとうてい認知されていませんでした。その点に、時代に先駆けた大島弓子の想像力の鋭敏さを見るわけです。

 第3点では、1977年の『さようなら女達』というマンガを取りあげます。これはマンガ家志望の女の子を主人公にした作品で、いわゆる「マンガ家マンガ」ですが、この時代、少女マンガの世界でマンガ家志望の女の子を主人公にした長編はほとんどなかったとのこと。しかも、このヒロインが描こうとしているのは男子同性愛の世界です。つまり、男子同性愛の世界を描くのではなく、男子同性愛の世界を描こうとする女子を描くことで、いわゆる「ジュネ」や「BL」といわれるジャンルのマンガにたいしてメタレベルに立つ作品を大島弓子はすでに描いていたわけです。その対象にたいする冷徹な距離のとり方は、ジュネやBLのブームのさなかで異色だったというべきでしょう。

 以上、簡単にまとめたように、福田里香の大島弓子解釈は、「腐女子」や「萌え」といったキーワードと深く結びついています。つまり、近年になって発明され、ブームとなった概念によって、事後的に大島弓子の作品の先駆性を強調しようとする方法です。その限りでは、福田氏の説明はきわめて実証的でもあるし、説得的でもあります。

 いっぽう、ここが『大島弓子にあこがれて』のすぐれて懐の深いところでもあるのですが、著者のひとりであるやまだないとは、本書に収められた横井周子によるインタビューのなかでこんな留保を表明しています。

「大島弓子を『腐女子』とか『萌え』とかいう言葉じゃ私は言い表せないの(笑)。めんどくさがって、『そうそう萌えだね』と迎合しちゃうと、44年間孤独に生きてきた自分を見捨てることになるんで、そこは頑張ろうかと(笑)。『萌え』だと思うよ、おんなじものだと思うんだけど、今までそれを私は『萌え』だと言えずに、試行錯誤でマンガ描いたり、アレしたりコレしたりしてきたわけだから。今ここで後からきた奴が作った『萌え』とかいう言葉を使いたくないわけ」

 では、やまだないとの大島弓子観は、というと、次の2点がポイントになります。

 その1、「ほんとうのことは言わない」。これは「サバシリーズ」と呼ばれる大島弓子の飼い猫サバを中心にすえた生活エッセーマンガについていわれていることで、このシリーズに表出される大島弓子の人生観とつながっています。大島弓子はひとりで暮らし、両親にも親しい友人にも絶対にほんとうのことを全部は話さずに生きていくことを選択している。言葉では他人に絶対に伝えられないことがあるからこそ、それを自分のためにマンガとして描いているのだ、というのです。なるほど、このあたりに大島弓子のマンガのもつ厳然たる倫理性の秘密があるのだろうなと私は唸りました。

 もうひとつは、「人間は自分の楽な役割をひき受ければいい」。大島作品ではしばしば登場人物が「父・母・子」などの役割をひき受けながら家族を再編する話が多いことから、人間関係を絶対的なもの(親子、夫婦、恋人等)として固定することなく、誰でもなんらかの役割を演じればいいのだ、とやまだ氏は気づき、嬉しくなったといいます。

 

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