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2014.10.08

第2回

毎朝の変わらないお粥から“私”の在り方が見えてきます。

吉村 昇洋

毎朝の変わらないお粥から“私”の在り方が見えてきます。

永平寺で修行をつみ、現在、広島の禅寺で副住職を務め、精進料理のブログ「禅僧の台所」も人気の吉村昇洋さんが、『心が疲れたらお粥を食べなさい』という書籍を刊行しました。禅的食生活の心得を説く本書から一部を抜粋してお届けします。

永平寺でお粥を食べる修行僧たちの静寂

お粥を食べる姿勢にも独特の緊張感が漂う

 お粥で濡れた匙の先に、胡麻塩をほんの少量付着させては口へと運ぶ。向こうが透けるほど薄く切られた自家製たくあんを箸休めに口に入れ、ゆっくりと噛む。100人ほどの修行僧たちが一斉に食事をとっているにもかかわらず、誰ひとりとして喋る者はいない。

 いや、それどころか、食器を扱うときの物音さえ立てないように食べているが、気をつけすぎて手元がおぼつかないというわけでもなく、そこにいる誰もが美しく流れるがごとく一連の食事動作を行っている。坐禅堂のピンッと張り詰めた静寂の中、お粥特有のクリーミーな香りは鼻腔を刺激し、お米の甘さと胡麻塩の塩辛さが相まって、鼻と舌が至福の喜びを感じる一種独特の感覚に浸るのである。

 これは、曹洞宗大本山永平寺で毎朝必ず見られる光景ですが、ここでの修行を終えてからは、お粥を食べる機会も少なくなりました。しかし、ときどき自然と身体が欲して、ふと思い立っては作ることも少なくありません。

 ところで、永平寺で出される食事は、朝のお粥を含め、そのすべてが精進料理です。以前、私が講師をした精進料理のイベントで、

「精進料理って、どんな料理をイメージしますか?」と、参加者に質問を投げかけると、
「野菜しか使わない料理」
「お粥とか、地味で質素」
「マクロビみたいな感じ」
 などの回答がありました。

 どれもヘルシー志向の方々らしいお答えではありますが、私からすると微妙にずれていると言わざるを得ません。第一、野菜しか使わない料理ということであれば、精進料理ではなく“野菜料理”と呼んだ方が分かりやすいはずです。では改めて、精進料理とは何なのでしょうか?

 まず、料理そのものを見るならば、先ほどの“野菜しか使わない”という表現は正確ではありません。精進料理では、あらゆる動物の肉や卵、魚介類、またそれらを由来とするだしなども当然使用できませんが、実は野菜の中でも五葷(5つの香りの強い野菜)もしくは五辛(5つの辛みの強い野菜)とも呼ばれる食材の使用も禁止されています。詳しくは後述するので、そちらを読んでいただくこととして、次に“精進”という言葉に注目してみましょう。

 日常生活で“精進”と聞くと、私など、白髪の紳士が若者に対して「精進しなさい」と叱咤激励するシーンを思い浮かべますが、この場合の精進は、“努力”と同じ意味になります。

 そこで、手元にある『広辞苑』を引いてみると、精進には、
「(1)仏道修行に励むこと(2)心身を浄め、行いを慎むこと(3)肉食せず、菜食すること(4)一所懸命に努力すること」
 という4つの説明がなされています。

 真っ先に仏道修行のことに触れられていることからもお分かりの通り、精進の語は仏教文化の中から生まれた言葉で、サンスクリット語のvirya(ヴィーリヤ)を元にしています。そうすると、精進料理の語には「仏道修行に励むことを支える野菜料理」もしくは、「仏道修行として野菜料理を食べる」という2つの意味が含まれ、野菜料理とはっきりと異なる点はズバリここにあると言えます。

 では、精進料理は、お坊さんしか食べることができないのか? といった質問が飛んで来そうです。しかし、仏教は僧侶のためだけに存在するものではなく、宗教や宗派を問わず人類全体で共有できる実践哲学だと私は捉えていますので、「仏教の実践を通した食事」であれば、それは精進料理であると思っています。

 ならば、その仏教の実践とは何か? という話になります。仏教は、自分の抱えている苦が何から生まれているのかということを、お釈迦さまが瞑想実践の中でじっくりと観察したことから生まれた思想です。乱暴な言い方をすれば、「私の抱える苦を生じさせている現象に、今この瞬間に気づいていくことこそが仏教の実践である」となるわけですが、そのためにはまず、基礎となる私の身体を生き長らえさせる必要があります。そして、あらゆる生命活動の中で、私と環境との関係性をはっきりと理解しようとしたとき、食事という行為は優秀な手がかりとして十分に機能するのです。

永平寺で毎朝、相も変わらず提供されるお粥。むしろそれを基本とし、変化しないからこそ、“私”と“お粥”の関係を毎日見つめ続けることができると言えます。このお粥は私にとってどのような存在なのか、また逆にお粥にとって私はどのような存在なのか?
 修行僧の数だけある“私“と“お粥”の対峙は、この先も毎朝繰り返されるのです。

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関連書籍

『心が疲れたらお粥を食べなさい。 豊かに食べ、丁寧に生きる禅の教え』

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