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2008.03.01

第四回

「南米の拷問から遠くはなれて」

堀越 英美

「南米の拷問から遠くはなれて」

 フライトまで時間があるというので、私たちは空港の暗いラウンジで映画を見ていた。「あ、もう搭乗の時間」。あわてて上りのエスカレーターに乗る。エスカレーターの先は天井だった。ああ、時間に遅れたせいで出口がなくなってしまったんだ。前に並んでいた人たちはめりめりと横の壁をはがしてそこから中に入ろうとする。いくらはがしてもベニヤが見えるばかりだというのに。しかし時間に遅れたのだから、無理にでも壁をはがして抜け出すしかない……。

 こんなシュールな夢見で起きた朝、右側の乳に痛みを伴うしこりができていた。すぐに乳腺炎だとピンときた。乳腺炎とは乳管がつまって炎症を起こし、40度近い熱が出て全身悪寒におそわれ、乳がとんでもなく痛み、真っ赤に腫れて岩のごとくかちんこちんになるというおそろしい病気である。膿を出すために切開手術を受けなければならない場合もあるらしい。完全母乳で育てている授乳婦が皆恐れている病気であるといっても過言ではない。

 なるほど、すると昨晩の夢は乳=私というアナロジーで閉塞しきった乳管に警鐘を鳴らす意欲作だったのか。裏テーマはベニヤ=母性幻想の解体に違いない。夢界に芥川賞があったら受賞間違いなし……とか言ってる場合じゃなかった。

 悪化する前に個人宅で開業している隣駅のカリスマ母乳マッサージ師のもとへ向かう。カリスマが取り出したのはごんぶとの針。号泣する準備はできていた。

針を乳首の奥深くまで2回刺し、指でしごいて詰まった乳かすを搾り出す。文章にすると痛そうでしょう? その想像どおりの痛さです。ああ、妊娠前にこんな痛い目に遭うって聞かされていたら、子供持とうなんて思わなかっただろうな……。

 妊娠・出産・育児は思った以上に痛さ・気持ち悪さとの戦いの連続である。私が子供作ってもいいカナ? いいトモロー! とのんきに考えたのは、出産の痛みすらろくに知らなかったからに他ならない。

 さかのぼること1年以上前。妊娠しちゃったんですよ~と報告した私に、知人がこう告げた。
「そういえば最近知り合いが出産したんだけど、mixiの日記で克明に出産の痛みを記録してて、男の俺でも震え上がっちゃったよ。すごい文才だから読んでみな」
 謹んでマイミク申請して読ませてもらった。詳細は個人の日記だから伏せるとして、「南米の拷問」という形容に震撼する。灼熱の太陽に焼かれた熱砂の上で拘束されてじわじわと体内の水分を抜かれながら牛馬に四肢を引かれて八つ裂きにされる兵士の姿がありありと浮かんだ(南米にそんな拷問があるかどうかは知らない)。

 出産体験マンガのアンソロジー集『ご出産』『続ご出産』(飛鳥新社刊)の描写もすごい。
「まるでアイスピックでハラん中ぐちゃぐちゃにかきまぜられてるみてーだよ!!」(安彦麻理絵)
「足が引っこ抜けるうううう」(たかはまこ)
「切り口の痛さと子宮収縮の痛さで想像を絶するダブルパンチ地獄」「何も飲めないのがとにかく辛い渇水地獄」(星崎真紀)
「やめて~さわらないで~ウッ(えろえろえろ~)」(南Q太)
「なまりをのせたよーなにぶい痛み 気持ち悪~ 吐きそー も~早く終わってほし~ こんな痛いならもう二度と子供は産まない」(竹内ゆかり)
「ウッカリするとカベとかベッドのヘリに頭をガツンガツンと打ち付けたくなる」(宇仁田ゆみ)

 鼻の穴からスイカどころの騒ぎじゃなかった。分娩台に拘束されながらアイスピックで内臓かき回されるような痛みに耐えつつ、浣腸、剃毛、会陰切開と、公開SMさながらの拷問イベントてんこもり、それが出産だったとは。

 すっかりおののいた私は産科医に無痛分娩させてくださいと泣きついた。
「痛さに耐えられる自信がありません……」
「それは耐えなきゃしょうがないでしょ。お母さんはみんなそうやって強くなっていくんだから」
 強くならなくていいです、適度に弱くいさせてください……とは言えなんだ。

 そんな折、『分娩台よ、さようなら』(大野明子・著/メディカ出版刊)という本を読んだ。自宅出産専門の女性産科医が書いた自然分娩礼賛本である。1日3時間のウォーキングと雑巾がけを励行して粗食を心がければ、分娩台や陣痛促進剤を使わない自然なお産ができるらしい。陣痛促進剤を使わない出産は自然な痛みだから耐えられないというほどでもなく、会陰切開も浣腸も剃毛も必要ないという。つるんと安産も夢ではない。一条の光が見えた。偏差値教育世代なので、努力次第でどうにかなると言われるとモチベーションがあがるんです。

 幸いにして実家の近くに自然分娩で有名な病院が見つかった。さっそくその日からつわりも寒さもなんのその、ウォーキングに邁進した。雨の日はエアロバイクで有酸素運動は欠かさない。恥ずかしながら生まれも育ちも文化系、こんなに熱心に運動に励んだことはない。すべては出産の恐怖から逃れるため。

 結果、つるんと産めたかというと……以前書いたとおり3日がかりの難産。陣痛促進剤を使っていればもっと早く産めたかもしれない。確かにその痛みは南米の拷問というほどではなかったし、会陰切開も浣腸も剃毛もせずにすんだが、3日間はいくらなんでも長すぎた。痛みと不眠で幻覚まで見るほどに。さらには陣痛のたびに胃痙攣を起こしたために水を飲むこともままならなかった。自然、マジ厳しい。

 産後はぴんぴんして3日で退院して仕事も再開できたのだから、自然分娩が体への負担が少ないというのは本当なのだろうとは思う。しかしヘタレ文化系が安直に臨めるものではないと実感。自然分娩は指を食いちぎられても「ライオンはパーフェクト」と言い切るムツゴロウのようなマイトガイのみに許される行為なのだ、きっと。マイトガイつーかマイト妊婦。そもそも我が子はのちにCTスキャンを受けるはめになるほど頭が大きく、はなからつるんと安産など無理だったのだろう。

 数ヶ月前の出産に比べれば乳に針を刺すなど大したことない、と言い聞かせながら母乳マッサージ師の施術を受けた。その横で赤子がおもちゃで遊びながら笑いかけるので、イテテと思いながらもにやにやしてしまう。悔しいことに産科医の言うとおり強くなってしまったようだ(痛みに対してだけ)。人はこうして文化系女子からガハハ系オカンになってゆくのだね。 

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